ミヤマキリシマ山行(14)ストック使用登山は邪道

下りはじめると風の当たりが弱まり、やがて樹林帯に入った。右手に避難小屋が見える。法華院温泉山荘のような恵まれた宿泊場所を近くに置きながら、どうして避難小屋があるのだろうか。うっそうとした木々の間にぽつんと建っていて、寂しそうだ。
Mが歩きながら、雷のときなどに利用するのだろうと言った。なるほど。水場もないし、本当の避難小屋だな。

さらに下っていくと、そこは段原。そこここに、可憐なミヤマキリシマが目だってきた。

平治岳に向かうと、降りてくる団体に会った。この先の大戸越というピークまで行って、引き返してくるところだそうだ。雨で歩きにくく、上に行くほどに風も強まるそうで、引率者が大事を取ったのだろう。このまま帰るそうだが、皆さん明るい笑顔で、ミヤマキリシマを見られたから嬉しかったと言っていた。

じゃ自分たちも大戸越までで引き返しましょうかと野遊は思った。

やがて道が益々泥グチヤになっていき、足を地につけてもズルズル滑り落ちるばかりでなかなか進まない。Mはかまわず進む。こういうときは、ストックって便利なのだろう。MもSもストックを使っている。そういえば先ほどの登山者もみんな持っていた。

最近ストックを持っている登山者ばかりだ。両手に持っている人もいる。スキーヤーみたいだ。下り道など、操られているみたいでかっこ悪い。

「野遊さんはどうしてストックを持たないのですか。両手をあけておくとか、理由があるのですか」と、Mに聞かれ、
「経験がないので知らないのです」と答えた。これが理由第一番目だ。

理由第二番目は、ストックは山を荒らす。いくらサックをつけたままにして使用しようと、地面を突くのだから。足跡と同じ数だけ地面に穴が開いていた道もあった。痛々しく感じたものだ。山は昔から同じものだが、登る人は毎年新たに続くので、オーバーユースになっているのだ。自然を愛する人間が登山する必要悪として、山は荒れるのだが、一人一人の心がけで、ずいぶん違うのではないだろうか。
ゴミを捨てないのと同じだ。

理由第三番目、ストック使用登山は邪道だと思う。
山を知った当初、山岳部の先輩方に、なるべく足で歩くようにと教わった。急な登りでも、安易に手を使わないようにと。手は、思い切り使うとしばらく使用不能になる。足は酷使に堪え、持久力がある。だから手は、いざというときのために保存しておくものだと。それに足だけで登っていると、体のバランス感覚が鋭くなっていくのだと。

野遊は今、両手が空いているのをいいことに、岩や木の根などをはしからつかんで登ってしまうが、それはヘタッピィな登り方なのだ。意気盛んだった若いころは、手を使う登山者をヘッピリゴシだなと思ったものだ。

しかしストックを持っていたら、手使用が当然となり、イロハを頭打ち捨て去ってしまうことになる。登れるうちは足中心で、野遊くらいになったら手も使い、それより老いたらストック(杖)の出番、ではないだろうか。

さらに野遊は、地面にじかに触れずにストックからの感触だけで登ることに不安を覚える。手で岩や木を掴んだほうが確実ではないだろうかと。まっこれは野遊が未使用者だから使用感を知らないだけなのかもしれないが。せっかく知らないでやってきたのだ、杖を必要とするおばあさんになるまでは持つまい。