朝日連峰 障子ヶ岳 8 障子ヶ岳に立つ

残り少ない水を少しずつ飲みながら、野遊は息を切らしているわけでもないのに体が思うように動かない。苦しくないがだるい。行く手の障子ヶ岳を見つめすぎて、そこから音楽が聞こえてくるのだが、気持のいい音楽ではないのだ。頭の芯がぼんやりしていた。

上からだれかがこちらを見おろしていると思った。いつまでも同じ格好をしている。
それは風になぶられて、人間が立っているような形になった木だった。
自分は今、人に会いたいのだなと野遊は思った。
足が動かないというのでもない。言葉で言えないのだが、とにかくすぐに休んでしまうのだ。意志とは関係なく。そしてザックによりかかって睡魔に引きずり込まれる。
ハッと目覚めて歩きだすと、逆方向に行こうとしていたりする。
風景が逆で「なんかヘン」と気がつくが、方向感覚もヘンになっているのだ。
「何をやっているのだろう」とは思わなかった。「よく気づいたなぁ」と思うのだった。地図と磁石を取り出しても、細かい字が読めなくなっていた。でもなんとも思わない、意識の奥で、地図なんて見る必要ない、バカらしいとかつぶやいているのだ。

障子ヶ岳の頂上はあまり広くない。立派な標識がぽつんと立っていて、もろに太陽が降り注いでいる。絶景にずっと取り囲まれていたので改めて眺め渡すこともなく、ボウッとしたまま進んだ。残りの水を飲もう。暑い場所だから、もう少し下って草の影になっているところで飲もう。それしか考えていない。

下っていくと、左が谷側、細い登山道からずっと下まで切れ落ちている。落差300mだそうだ。すごいなあ雪渓と岩々の混じり合い。足元は、人の足跡がつかないような固い、大粒の砂のような細かい石だ。ベージュの美しい石。ぼんやり見とれている。
ここで足を踏み外したら、一瞬でラクになれるだろうな。誘惑に負けそう。でもそれは大変みっともないことなので、慎重に歩こう。そういうときだけ意識がしゃきっとして歩を運ぶのだが、過ぎるとまたタラタラ歩いている。ひとりだと甘えが出るのか。

草場の影で最後の水を飲んだ。少ししかなかった。がっかり。唾液を出そうと、飴を口に入れていたが、全然溶けないで口の中。でも口を動かしているだけでもいいと思った。

障子ヶ岳から1時間で分岐のはずだ。昭文社の地図から、野遊はひたすら1時間と唱えていた。
1時間歩いた。分岐らしい場所に出ていない。もうとっくに障子ヶ池とかもあるはずなのに、出てこない。ふりむいた。障子ヶ岳を見あげて驚いた。
あそこからここまで、とても1時間の距離には満たない。これしか歩いていないのか!
1時間前に立った障子ヶ岳が、すぐ後ろにそびえていたのだ。