朝日連峰 障子ヶ岳 25 「野遊の判断」

だれも来ず、ひとりだったらどうしていたか。
野遊は障子を越えて1時間歩き、ふり返って、すぐそこにそびえる障子を見て愕然としたのだった。まだいくらも距離を稼いでいない。30分くらいのところを1時間もかけていたのではないか。吐き気、めまいはなかったが、行動中の眠気は熱中症の1度になるだろう。
でも歩けなくなっていたのではなく、がんばって歩くと脱水のため体が動かなくなったり、意識が遠のいてしまうことが心配で、休み休みノロノロとみっともなく歩いていた。けれど「だれか助けて」などとは考えていなかった。

一気に歩いたら熱中症で意識がどうなったか知れず、あれは間違った判断ではなかったと思う。

あのまま歩いたらすぐそこが障子ヶ池だ。飲んでいただろうか煮沸して。あの時間、池の水を煮沸して飲むとしたなら、明るいうちに天狗の小屋には着けなかった。いくら希望的計算をしても、あの場で野遊はそれを覚悟しただろう。覚悟できなかったら、水を飲まずに先を急ぐしかない。早く行きたくて、生水を飲んだだろうか。そんなはずはない、と思いたいけれど、想像ではこれ以上何も断言できない。

気を張っているときはボウフラのいる生水を飲んでも体に異常は生じないとは言うが、もしかしたら時間を焦って、生水で七転八倒する羽目になっていたかもしれない。

あるいは。冷静に判断して荷を解き、障子の水を煮沸して冷ます時間を持ち、心ゆくまで飲み、ついでに夕食の準備をして、ゆっくり食事してビバークという選択肢もあった。

簡単に池の水を飲むと言っても、登山道から少し外れるのだ。このロスタイムだって相当怖いので、覚悟してビバーク体勢をとれば自分で自分を救うことはできたと思う。野遊はもちろんシュラフのほかにビバークシュラフも持参していたし、防寒具も抜かりなかった。そうしたなら次の日、天狗の小屋に寄って狐穴に向かっていたかもしれない。

ビバークは未体験でコワイ。未知の夜道を歩くことはもっとコワイ。

ザックに寄りかかって居眠りしたとき、背後から靴音が聞こえた。あれはブルーベリー氏たちの靴音だったのだ。どうして背後から聞こえたのか。山全体にドッド、ドッド、と響いていた。相当な早足。けれど「救助に来てくれたのか」など想像しなかった。野遊は意識してだれかに助けてほしいなんて思いもしていなかったのだ。

野遊には「迎えが来なくとも歩いたのに」という気持がある。ブルーベリー氏が、水を持ってやってくる夢まで見たくせに、なんて言い草だと思いはするが、もうダメだ、迎えが必要と思ったなら、遭難用の呼子も持っているし、ケータイで連絡することもできた。緊急連絡先の電話番号も控えていた。靴音を空耳と思わず、飛びついたかもしれない。野遊は歩く気だったのだ!

いや、それはムリだっただろう。わかっているのに足が前に出なかったもの。頭がボウッとしていたことを素直に認めなくては。今だから「もう少しなのに」と思えることで、こうして分析していくと、野遊はあのとき、やっぱりダメだったと思う。ブルーベリー氏が迎えに来てくれなければダメだったのだ。

体の苦痛は時が過ぎると薄らいでしまうけれど、ちゃんと思い出せ! 正直にそれを語れ! 自力で小屋に着けたかもしれないなんて思うのは、あのときの自分に失礼じゃないか・・・着けなかったのだ。認めようとしないから、こんなにいっぱい書いてしまったじゃないか。・・・認めるべきだ。ああ、これで少し楽になった。