朝日連峰 この秋 25 終章「志田周子」

大井沢の温泉ゆったり館のロビーに、志田周子(ちかこ)さんの等身大の写真が掲げられてある。山じいが山岳会の友と日暮れ沢に車を取りに行っている間、野遊は7月に宿泊した橋本荘に行ってご挨拶をし、そのあとロビーで待ちながら、この写真の隣に張られてある説明を読んでいった。


明治大正時代、雪深く辺鄙な大井沢は車が入らず、村人たちは不自由な生活をしていたそうだ。病人や怪我人が出ても無医村で、助かる命も助けられなかったという。


これは「ミキ尾根」の章で書いた三面もそうだった。重病人をヘリコプターで運んだことなどがあったそうだ。

明治43年、大井沢で教員をしていた志田荘次郎氏の娘周子さんが、村で初めて女学校に行った。大井沢には高校がなかった。彼女はだから、まだ十代のころに、勉学のために親元を離れて暮らしたのだ。そして東京女子医学専門学校(今の東京女子医学大学)を卒業して、当初は迷いもあっただろうが、父の「三年でいいから」という懇願で、大井沢の唯一の医者になった。小児科だったそうだが、この日から志田周子さんは大井沢のすべての病人と向き合うこととなる。

医者がほしい、という村全部の願いを、我が子に実現させようとした父親も立派なら、それを受けて決意した娘も立派。その心がけの清らかさは、歴史の中の偉人たちと同等に偉大だと思う。

三年は瞬く間に過ぎた。やがて周子先生はご両親を病でなくし、手を尽くしきれないことで人の命を失いたくない、この地に骨を埋めようと心に誓う。そして生涯を医者として大井沢の人々に捧げることとなる。昭和37年、53歳で病を得て、この世を去っている。


「西山にオリオン星座かかるをみて 患家に急ぐ 雪路をふみて」志田周子


大井沢の人々は、志田周子先生に、今も感謝の心を忘れない。感謝だけでなく、自分たちのために、一人の女性が人生を投げ打ってしまったことに憐憫の情があるようだ。周子先生が生涯独身であったことにも。

ゆったり館のロビーに張られてある解説は、まるでつい最近のような、生きた熱い感情がこもっている。野遊も志田周子さんに感謝したい。周子先生の小説や芝居などもある。(野遊も演じたい)

たくさんの人々の命を救い、心のよりどころとなったであろう志田周子さんは、大井沢の人々の真心と共に、永遠に生き続けるだろう。合掌。


野遊は朝日連峰の稜線や尾根筋だけでなく、麓も好きになった。大井、といったら東京の大井町とか足柄の大井松田、それから南アの大井川を思うくらいで、大井沢は知らなかった。でもこれからは大井といったら大井沢だ。厳しい自然の中で、その厳しさに比例して美しい自然、誠実な温かい心、おいしい自然食に恵まれた大井沢。登山日プラス1日を用意して、大井沢を探索したい。


大井沢の歴史については、10月21日、山形から日暮れ沢までの車中で、山じいが野遊にお話してくださったことから知った。


朝日の神様は、きっと、ずっと昔から朝日に憧れていた野遊が、本当にトコトコ歩いてしまったので、昨夏喜びを与え、今夏艱難を与え、それでも歩きたがる野遊を愛でてくださって、この秋、そっとミナグロに姿を変えて、「もっと見つめて歩いてごらん」と、ささやいたのだろう。

朝日連峰よ、野遊はミナグロを独占して歩いた。
あの日のあなたは、永遠に野遊のものだ。


この体験をムダにはしない。


野遊の「朝日連峰詣で」は、これでファイナルではない。


        
  ピュ.ー (  ^^ ) <これからも行くわよ
     =〔~∪ ̄ ̄〕
     = ◎――◎                      



                    朝日連峰 この秋 了 (2011)