朝日連峰 この秋 24 「大井沢」

大井沢には志田という苗字が多い。それは遠く、平将門の時代にさかのぼるそうだ。心ならずも朝敵とされて敗れた将門は戦死し、一族郎党処刑されたが、残党は、福島の相馬郡へ逃げ、追撃されて出羽の国(山形県)へと逃げたという。

1隊は二手に別れ、さらに奥地に逃げ、そこが今の大井沢。彼らは志田と名乗った。
「志田弾正」(将門のひ孫とされている)の碑が大井沢にある。
大井沢の名の由来は、将門の故郷、下総国の大井郷からきているそうだ。

明治維新で、国民皆公的に苗字を持つことになり、大井沢の人々の多くが、この土地にゆかりの深い志田姓を名乗ったのだろう。

しかし将門の時代の千年以上前、大井沢にはだれも住んでいなくて、そこに落人たちが居を構えたのかどうかはわからない。元々村人が住んでいたところに落ち延びたとも考えられる。そういうところの人々は人数も少なく、血が濃くなっていくので、よそから来る人を歓迎したと聞く。

たとえば悪事を行なって逃げた罪人であっても、実は自分は高貴な出で、何々の落ち武者でと、語る人もあっただろうし、娘さんが身ごもれば父親たる人の高貴な出生を、村人は信じたいだろう。
それが人数を伴ってやって来たら、それこそ格好の落人伝説になり得る。

落人伝説は日本各地にあるが、高貴な方々ばかりになっている。当時、大した変化もない土地の人にしてみれば、そう言い伝えたい心情もあっただろう。
一族郎党、平氏の落人といっても位のある人から下人までいるのだから、その志田彈正という人が、本当に将門のひ孫であるかどうかは定かではないと思う。
しかしひ孫といわれる代まで、将門が東北圏内でも大事に思われてきたことについては、かなりうなづけるものはある。

戦が起こればその土地の人々は、殿様を売ってでも生き延びようとすることがあるが、将門には、命がけで彼を守ろうとする村人たちがいた。歴史では、朝敵将門は悪者扱いされてきたが、同じように悪者扱いされてきた歴史の中の人物が、時と共に新しい検証が為され、解釈が変わる時代になってきた。将門もそのひとりだと思う。

平家の落人伝説が残る山間に、集落「三面」もあるが、これは平清盛時代の落人かと言われている。疑問である。将門時代の落人のことではないだろうか。
もし清盛の一族と想定するなら、戦って敗れ、追われて逃げた人たちである可能性は非常に少ない(南に逃げるはずだ)ので、清盛時代に配置されていた東北地方のお目付け役が、中央の政治が変わって逐電したのかもしれない。ちょっとムリな解釈だが。

大井沢の歴史は湯殿山神社も古い。橋本荘の近くにある湯殿山神社は、出羽三山湯殿山派の別当寺であり、空海によって金色山大日寺として建立され、室町時代、江戸時代にそれぞれ興隆があり、羽黒修験道の拠点となっていた。
最も繁栄したのは江戸時代で、国家鎮護玉体安穏の祈願寺となった。「日本七大霊場」の1ヶ所にも数えられ、全国から多くの参拝者を迎えた。大日寺を発って出羽三山へ向かう行者の列は、「湯殿まで笠の波打つ大井沢」と詠まれたほどの賑わいだったそうだ。
大井沢では9月「大井沢秋まつり」と銘打たれた例大祭が行われている。
けれど野遊が参詣したときは、人気のない閑散とした神社という感じだった。

また、大井沢は木が採れることから、地肌のままのお椀を作る「木地引き」が盛んだった。漆器を製造する合間にこけしを作っていた志田菊摩呂というこけしづくりの名人が出て、菊摩呂こけしと呼ぶそうだ。現在は、孫の志田菊宏氏があとを継いで製作、この方は国立公園管理人でもある。野遊は、今度大井沢に行ったら菊麿呂こけしを買いたい。

さてここで御礼。今回の「朝日連峰 この秋」。見知らぬ方々のさまざまなコメントをいただき、まことにありがとうございました。野遊の世界の、浅い部分で書いておりますm(__)m。次ぎは終章「志田周子」です。