朝日連峰北方 16  今日初めて人に会う

小屋の、水場のそばで、だれかがこちらを見ている姿があった。
男の人のようだ。大きなザックがそばにあるので、小屋番さんではない。
あ、人間発見、と降りていくと、こんにちはと丁寧に言ってくれた。
野遊も挨拶した。
「どこからいらしたのですか」と聞かれ、
「天狗の小屋からです」(つまり大井沢から一気ではないという意味)と答えた。

野遊も「そっちもどこからか聞かせてよ」と言いたかったけれど言わず、聞きたいな、この人どこから湧いてきたのだろ、と思った。
このドデカイ荷物、大げさだよね朝日のどこを歩けばそんな荷物になるのよと。

彼は「今日は以東まで行くつもりでしたが、この時間ですし泊ろうかと迷っております」と言った。
15:00だ。今から以東まで・・・。(びっくりの絵文字も付けられない)
「明日はどちらに行かれるのですか」と聞かれ、調査員か。
野遊「相模山を往復してから以東に向かう予定です」
調査員風情「あの尾根は隔年整備で、今年は整備隊が入っておりません」
野遊「(一気に信頼度が高まり)え、相模山まででも難しいでしょうか」
調査員風情「以前歩きましたが、しばらく歩いておりませんのでわかりません」
野遊「もし歩きにくかったら、善六池くらいで帰ってこようと思います」
調査員風情「・・・・」(何なのこの沈黙)
野遊「だったら三方池までで戻ってこようと思います」
調査員風情「・・・・」(あのねぇ〜三方池までは稜線から下って5分なんです!)
野遊「(大いに不安になり)それでも危険でしょうか」
調査員風情「しばらく歩いておりませんのでわかりません」

正直な人なのだった。
野遊はとりあえず小屋に入った。少ししたら調査員風情がノックして戸を開けた。泊ることにしたのかなと思ったが、
「明日は泡滝に12時に迎えの車が来ることになっておりますので、やはりこれから以東に行くことにしました」
玄関前にきちんと立って挨拶してくれた。
ガスがしきりに流れてきている。

「以東の登り、迷いやすくないですか、わたしは迷いそうになったことがありますが」と言うと、彼はちょっと考えてからにっこり笑い「迷いやすいですね」と言った。

「お気をつけて。今から2時間半、ずっとご無事を祈っています」と言って別れた。

この会話、今思うと、実に汗顔の至りだ。この人は、本当に調査員だったのだ。それは次の日、野遊が以東小屋の宿泊名簿に氏名を記入するとき、前夜宿泊の欄に、その人と思しき名前が記入されてあり、(ほかに登山者はいなかった)鶴岡市・朝日何々調査員とか書かれてあったのだ。

あの大きい荷物にも、きっと理由があったのだろう。


以東岳、迷いやすいですねと微笑したその人は、赤ちゃん相手に話していたようなものだったのだろう。