ヒマラヤ山行(35)名物朝の体操

小さな飛行機内で、みんなが窓外の景色に心を奪われているとき、それらに交じって、あの優秀なる鬼コンダクターが、狭い座席の通路側に半身を傾けながらうっつらしている姿があった。体がだんだん傾いていくので、本当の居眠り状態のようだ。
膝の上には、山行中ずっと持ち続けていた黒い分厚いファイル・ノートがあり、両手で囲っている。

あんな重そうなものをわしづかみにしたまま5000mまで歩くのだから、なんと強い人だろう。彼はクライアントがたから親しまれ信頼されていた。シェルパがたからは尊敬されていた。畏れられてもいた。それは背後に大きなツアー会社があるからだけど、それを背負って采配を振るうに足るリーダーだったからだろう。

ガルモという名のキッチンボーイがいたが、彼はこの鬼コンを慕っていた。食事の度に、ケチャップやらソースやら、鬼コンの皿にやたらと振りかけるジェスチュアーをした。
いつも同じふざけ方なので、おかしくなさ過ぎて笑えた。鬼コンは「んも〜参ったな〜」という感じで笑みを含んだ目でガルモを見たものだ。何日も家を離れて仕事する彼らだが、たまにはふざけたりじゃれたりして、思い切り笑いたいのだと思う、特に若者は。

どうしてガルモがこんなに鬼コンを慕っていたかって言うと、これは野遊の(多分確かなる)想像だけど、雪が降った次の日、オニオンが、あまちがえた鬼コンが、行動中の休憩時間に雪玉を作っていたが、歩き出してから、それを投げたのだと思うよ。まさか自分よりずっと目上のクライアントがたには投げられなかったのだろう。もし野遊に投げたら、喜んで騒がれて雪合戦になるのを恐れたかも。で、多分ガルモの頭か肩にポーン。ガルモ坊やは騒がなかったけれど、ふり向いて鬼と目を合わせたに違いない。その時に愛の交錯があったのだ。野遊には、後方で起こった些細なことだけど、「あの雪玉はどうするのだろ?」と気にしていたので、その、わずかな空気の動きと、一瞬の微かな含み笑いで、うしろを見なくとも察知できるものがあったのだ。

閑話休題・・・ガルモってなんかすごく音的にインパクトのある名前だと思う。どういう意味があるのだろうか。「ケエ、ガルネ」というネパールの決め台詞のような言葉があるそうで、それと関係あるかな? で、敢えてここに名前を書いてしまった次第です。】

鬼コンは書き出したらこれで1冊になるほど痛快に面白いところもあって、なにしろ野遊が「鬼コン」と呼べるほど親しめたのだから。彼が健康手帳に自分のサインをする際「鬼…」と書いたことがある。それで野遊に「手帳のサイン、ちゃんと見ましたか?」とわざわざ知らせてくれる遊び心。でもクライアントにはどんな場合も決して友達言葉を使わない行儀のよさ。これは多分会社のマニュアルにでもあるのかもしれないけど。

食事のときもちゃんと座って「いただきます!」と言っていた。朝の挨拶もはっきり言える体育系。
楽しかったのは出発前の体操で、「皆さん声出してくださいよ〜いっちにっさあんしっ!」と言い、クライアントが「ごぉろくしちはち」と続け、「にいにっさあんしっ」と鬼コンが言い、「ごぉろくしちはち」と、クライアントが続けるのだが、これはもう高校や大学の部活そのものだった。外国のトレッカーがたは「マジナイか?」というような顔をして見学するし、クライアントの声が次第に小さくなっていき、なんだか野遊だけが答えているような日もあった。


往きのバス移動中もずっと野遊のそばで何かと話しかけてくれた。「バンコクカトマンドゥと、どっちが好きと感じましたか?」どう答えたらどうなんですか?思わずまじめに「ネパールです」なんて答えた野遊だったが。野遊が女性単身参加のため気を遣ってくれたのかもしれない。おまけにボケだし。

でも時として、笑いを通り越してちょっと嫌なんですけどということもあった。おたがいさまかもね、野遊も鬼って言ったのだから。

この野遊にとって鬼のような神様は、まさにトレッキングを終えた今、すでに窓外の山々に用はなく、思わず目をつむったのだろう。「寝ないでください、座ったままでも寝ないで!」という鬼の声が耳の奥に聞こえてきて、野遊はひとりクスクス笑いが込みあげる。

そうだ、キャンジュマに下った日、各自部屋に引き上げるとき、「もう昼寝してもいいですよ〜」と言っていたな。そこまで下れば我々も体調が回復して、昼寝したいとは思わない。けれど部屋で窓の外をいつまでも眺めていた野遊が、ドアーを開けて廊下に出たとき、この鬼コンと出くわし、即座に「おはようございます!」と言われたものだった。
・・・まったくね〜。ひとりでいれば寝るしか用がないと思っている体育系。

全員無事で山を降りました。お疲れ様でした。お世話になりました。寝顔にそっとお礼を言った。

(なんと昨日5月29日、彼から電話があり驚いた。「8月にキリマンジャロ行きませんか」ですって。こんな野遊にまで声をかけるとは、いやはや大変なお仕事です。催行決定もコンダクターの手腕なのかもしれない)