大黒屋光大夫を辿る旅 7 金沢通り

1967年、イルクーツク市と石川県金沢市姉妹都市協定を結び、市には「金沢通り」という通りがある。ロシア語と日本語表記とが看板で併記されている。
その文字、「金沢」はちゃんと書かれてあるのだが、「通」という字は、「マ」の小さいのが、用の右上にちょこんと引っかかっていて、シンニョウに至っては奇妙な形で言葉で言いにくい。「り」も角度が曲がっているというか・・・学校の漢字テストでこんな「通り」を書いたらバツだろうな。きっとロシア人が、漢字を見ながら一生懸命書いたのだろう。ほほえましかった。

「露日交流の記念碑」は、この金沢通りにある。 今回の、この旅の団長が鈴鹿市長だった1994年、大黒屋光太夫とその一行を讃え、イルクーツク市と鈴鹿市、ロシアと日本の友好と平和への願いをこめて、イルクーツク市と鈴鹿市によって建立された。雨の中、しばし感慨にふける仲間たちであった。

今は一年で一番暖かい季節なのだろう。イルクーツクは冬が長くて厳しい。 光太夫以下17人のうち、海上でひとり、極寒のシベリアでひとり、またひとりと仲間を失いながら、アリューシャン列島のアムトチカからニジニカムチャック、 チ ギリスク、オホーツク、ヤクーツク、と、艱難辛苦の移動をしてイルクーツクにたどり着いたのだ。町の様子を見て、ここは人間が文化的に生活できる地のようだと、とりあえずはほっとしただろう。ほっとして居つくのではない。帰国に向けてさらに行動していかねばならない。日本人にとって、北海道よりまだまだずっと寒いイルクーツクの長い冬を過ごしながら、生き残った大事な仲間たちを抱えて駆られた光太夫の焦燥は、想像にあまりある。