大黒屋光大夫を辿る旅 15 絆

国が変わって状況が変わったとて、そこにいる人たちは同じ人なのに、どうして、豊かに交わされていた交流までもが麻痺してしまうのか、人間個人個人の思いなんて、そんなに力のないものなのか、あるいはそんなにいい加減なものだったのか。いくら何を思っても、現実は現実で、ダークのロシアコンサートはそれきり途絶えた。さてここで本題。

ソ連崩壊の一年前(1991年)に、鈴鹿市長としてロシアを訪問し、光大夫を通して友好を交わしたこの「辿る旅」の団長について。


彼は当時のソ連訪問の旅行記を『大黒屋光大夫追憶』に記しているが、末尾に追記として、以下の名文を残している。
「光大夫一行を追い求めながら今のソ連の人々の市民生活に触れつつもよろめきのペストロイカを横目に、意識して避けてきた政治問題であったが、恐らくそうでなかったとしても党本部の大奥で謀られていた政変計画には気がつくすべもなかったであろう」
「昨夏交流を深めたロシアの人々は今何を思うだろう。今一度、彼の国の友と語り合いたい。人と人との絆が歴史を創るのだと信ずるから」

・・・なぜに20年後の今日、こうして友好関係を再燃させることができたのだろうか。それは上記「人と人との絆」が深かった、それだけのコトダマを、当時交流し合ったということに尽きるだろう。

情勢が変わっても、覚えていた人がいたのだろう。それを再燃させたいと思った人がいたのだろう。そしてそれをできる人がいたのだろう。もちろん日本人をロシアに呼んでも、全費用日本持ちで行くので、ロシア側の懐が痛むわけではない。

サンクトペテルブルグには世界各国から観光旅行者が来るが、イルクーツクはどうなのだろう、詳しいことは知らない。いつぞや交流を交わした日本人に声をかけて、観光産業の興隆を考えたのかもしれない。だとしたら24人も行って、うれしかっただろう。これを機会に、今後も来てよねと思ったことだろう。

それにしても、過去の交流記録が物を言ったからこそ、こういった呼びかけができたわけである。そして、

せっかく呼びかけても、日本側がそれを受け止めなかったならどうなっていただろう。鈴鹿市も16年前とは状況が変わっている。市長は党派も変わっているのだ。

野遊は、よくぞ団長はこれを個人で受けて立ったものだと思う。これは彼が市長時代にやり残したことといった意識も、もちろんあっただろう。今はご隠居さんの身なのに、全く業がら抜け出さない人だなぁと思うのだが、それだけではないのだろう。

個人で受けるといってもそれは普通できないことだ。団長はもう隠居も同居も転居も新居も旧居も閑居も謙虚も暗渠(あんきょ)も蹲踞(そんきょ)もなく、自分の管理?しているNPO文化塾の名義で以って立ちあがったのだ。(言葉遊びすぎましてm(__)m)。

そして「いつもの各位」とやらのDMを発進して気のおけない仲間に参加を呼びかけたが、皆さん、いくら夏休みでも1週間は都合がつきにくかったり費用も高いし、なにより団長の友達は大体団長と同じくらいの年齢の方も多く、足が弱いとか、体力的にどうもとか、そう腰があがらない。それで公募に踏み切って20名以上を集めたのだ。それはモウレツな情熱的行為である。

まだ息吹を発している絆を受け止めて、しっかりとかけ直し、次世代に継いでいきたい、ここで断っては過去の絆が水泡に帰すと思ったのだろう。20年前、彼は絆という言葉を使ったが、この絆を大切に思ったのだろう。つまり団長の「真義」かな。

と考えると、野遊は、個人的好き嫌いはともかく(^_^;)、この団長、やっぱり偉いと思う。