大黒屋光大夫を辿る旅  32 徒労

この旅で、わたしたちが見学している間に、チャータしていた専用バスが、バス会社の予定外の事情により、ほかのことに使ってしまった。わたしたちのバスの中の荷物は、とりあえずほかの場所に移動させ、用事が済んだあと、また元通りに戻されてあった。

けれどわたしたちはバスに乗車した時、微妙にバックなどの位置が変わっていることに気づいた。
皆がなんとなくざわついて、結局それぞれで元通りにして事なきを得たのだが、ガイドのアリスはその間、何も言わずに見ていた。やがて団長に聞かれて、アリスは、実はこのバスを会社が使用したと告げたのだそうだ。そうだ、と書くのは、野遊はバスの後方の席だったので、そこらへんの状況を知らない。

団長に言われてアリスは「みなさん、荷物は何かなくなっていませんか。大丈夫ですか」と聞いた。全員、大丈夫ではあった。しかし団長はそれで事を終わりにしなかった。


このバス会社事件については、団長は、「ものごとの道筋」に於いて譲れないものがあったようだ。

1、バスは我々が借り切ったものであり、見学中もその場に待機しているべきである。
2、待機中、バスの中の荷物については、バス会社は責任を以って管理すべきである。
3、見学中であっても、業務時間内のバスをほかのことに使用するのは規約違反である。
4、それを「無断で」バス会社はほかのことに使用した。もってのほかである。
5、しかも我々がバスに戻ったとき、それを真っ先に告げなかった。
6、さらに運転手もガイドもそれをきちんと謝らない。
7、アリス個人の責任ではないが、会社のブレーンとして、アリスは会社に代わってしかるべき態度をとるべきであり、そうでないなら、会社の責任者を呼べ。

と、いったような気持だったのではないだろうかと想像する。

盗難事故もなく、よかったが、だからいいでしょうという問題ではない。話の筋はそんなところにあるのではなく、人間の「契約」の問題である。さらに契約を破ったときの処置法の問題である。ここをいい加減にしてしまうと、ほかのあらゆる分野での約束事が、なし崩しに乱れる。

団長はアリスを叱った。あんなにかわいいアリスを叱るなんて、団長は辛かっただろうな。

アリスとバス会社がやり取りの末、バス会社は「今夜の晩餐にワンドリンク」とかで、詫びを行動で現すことになり、表面上は一件落着したのだが。

けれど野遊はなんだか釈然としない。
日本の社会では、団長の言い分は当然のことだが、バス会社は、本当に、この日本人の主張を理解納得したのかどうか。
うるさいヤポーネがタラタラ文句を述べて引き下がらないので、仕方ないので「振り切り手段」として、なんらかの解決処置を施し、それで引き下がらせただけではないかと思う。
アリスも嫌な気分になっただけで反省はしていないと見た。

アリスは一言も反省の言葉を述べていないし、バス会社も正式に謝罪の表明がないままだ。

他国で理不尽なことは多々ある。言えない相手には憮然として飲みこむ日本人。言える相手は、言えるだけに「たかがしれた相手」だ。そういう相手にだけ言ってもしょうないではないかと思った。
団長がアリス個人にいつまでも文句を言っているのを聞いて、わたしはバスの中で「もういいじゃないのよ」とつくづく思った次第だ。だって徒労だから。
彼らはわたしたちの美意識なんかわかっちゃいない。お国柄の差であろう。


日本人は文句を言ったのではない。そこをわからせることができたとは思えない。
「そうか、日本という国は人と人との約束を重んじる、信頼できる国なのだ」と、この点において限りなくいい加減な歴史を辿ってきたロシアンがしみじみ感動するようにやり合うには、「差」という障壁があるということだろうか。
あの程度ではただの日本人側の自己満足であって、結果は徒労に過ぎないのが残念だった。