大黒屋光大夫を辿る旅 35 終章 

個人的には、野遊は、シベリアの日本人墓地にお参りできたこと、ロシアの白夜体験、レッドアロー号で一夜を過ごしたこと、エルミタージュ美術館体験をしたこと、また、光大夫を身近に感じることができたたことなどで、この旅行は有意義だった。

この旅行の参加者方はそれぞれの中でそれぞれの目的を達したのだろうし、団長も自身の目的を達したのだろうから、互いに利用、というか活用し合った、と解釈すればいいのだろう。

しかしこの旅行の目的を思うと、今後につながらなくては意味なし。

団長なる人は元、三重、鈴鹿という国サイドながら政治家だったので、今は隠居の身ながら、己の為したることへの成果を見極めたかったのではないかと思う。市政が変わり、元市長の敷いた道筋は却下されてしまった。それが、いみじくもイルクーツクから訪露の声かけを受けて、俄然、自分が受けて立たねばそれ切りになってしまう、ということで行動した。

でも本来なら、それは彼が為すのでなく、鈴鹿市が継承しているべきものであったはずだ。どこにも継承されていなかった。ここで再び絆を結んだとて、今後どうなるというのか。だれが、どこがこれを継承していくのだろうか。

8月7日、イルクーツク副市長とゴボリン氏を交えた晩餐会の折、彼らは会話の中で、(来月)9月14日に、イルクーツクで何やらの式典が計画されてあり、団長は出席の声かけを受けた。団長はその場で、本気でまたイルクーツクに行こうとしていた。けれど、9月になってもイルクーツクからは招待がこなかった。

団長はその日に向けて飛行機もホテルも予約したが、ギリギリまで待っても、ついにイルクーツクからの音沙汰がなく、仕方なく、すべてキャンセルしている。(キャンセル料を支払ったらしい)

日本側(団長だけが)ばかりが一生懸命で、ロシア側は別にどってことないような気がするのは、野遊だけではないだろう。全然公平な関係にない。

24人の旅行者がホテルに宿泊しロシアンを晩餐に招待し、高価なプレゼントをして帰ってきても、ロシアからの返礼の手紙も品物などももちろんないままだ。晩餐の席で団長は、ロシア側から花一輪もらったわけではない。

鈴鹿高校とペテルブルグのバラの学校との友好関係にしても、鈴鹿のいろいろな学校に打診して、ようやく応答してきたのが鈴鹿高校であって、その校長は、「言われたので付き合いますが、何かメリットありますか〜」といった客分態度も甚だしく、団長と共に意欲に燃えていたとは全然思えない。団長は、形だけ整えて「これを為した」と自分に楔を打ち込んでいるだけのように思える。


同じく20年前、フランスのルマン市と、鈴鹿市は友好都市関係を結び、団長はこれも再びその絆を確認し合いたいと強く望んでいるようだ。人生ででやり残したことを一件一件し終えていきたいそうだが、そこになんだかんだとものすごくドラマティックな言葉が添えられるが、それは彼の、ただの自己満足に過ぎないのではないだろうか。自己満足を否定するものではないが。


訪露にしてもルマンにしても、20年前から今日まで、あまりしっかりと継承されていなかったことは、つまり成果の得られぬ政治劇だった。ということなのだ。
それを認めず、再び彼が、自分の為したことへの継承行為をせねばならず、ただ自分の中で「やれるとこまでやった」と、思い込みたいだけ。
団長の独り相撲的な色合いが漂う。

自己満足と意識して行動しているならともかく、まっさら鈴鹿のために〜とか、自分はまだまだ世の中から要請されているもんで〜とか思い込んでいるらしい彼の様子を見ていると、何やら気の毒にも感じてしまう。信じる者は救われる、か。

このことは社会のある面を、みごとに表示していると思わざるを得ない。
そういう意味では、野遊には、決して気持のいい旅ではなかった。