大黒屋光大夫を辿る旅  34 三重県よ、鈴鹿よ

光大夫が帰国を果たすまでの大活躍は、ロシアという大きな国を相手に、名もない個人が為した、歴史に語られるべき国際交流である。しかし彼の後半生は、それを生かすどころか封じ込められた。それで実際には、光大夫は何の役にも立てなかったのだ。歴史上でも知る人ぞ知る光大夫であった。

閑話休題・文献などには、大ではなく太であり、「光太夫」となっている。しかし光太夫は先代であって若くしてなくなり、件の大黒屋光大夫があとを継ぎ、こちらは「光大夫」と名乗っている】

漂流して異国人に救われ、やがて帰国して名を後世に残した人にジョン万次郎がいるが、時が幕末ということから、彼はやがて幕府に仕え、のち教授になって語学者と呼ばれている。中浜の貧しい漁夫の次男の、目もくらむ出世である。
万次郎は当時の役に立ったので教科書にも載って日本人は子供のころから学ぶのだが、もっと長い歳月をロシアに過ごし、トップ階級の人々と渡り合って彼らを動かした光大夫を、いかほど日本の役に立ったかしれない光大夫を、幕府は飼い殺し、日本人は長い間、彼を学ばなくてもいいことになっていた。

しかし小説化、映画化も徐々に功を奏し、また、時代の変遷が光大夫の人生に光を当てたのだろう、今は大黒屋光大夫、教科書にも取りあげられ、彼を知る人が増えつつある。
光大夫をここまでにしたのはもちろん、上記に加えて、衣斐賢譲氏の、鈴鹿市長(1987年〜1995年)としての活躍が欠かせない。市政五十周年に向けて、鈴鹿市が向上に次ぐ向上を重ね、熱く燃えて脱皮を繰り返した時期の市長である。

ソビエト連邦は崩壊しロシアとなり、やがて鈴鹿市も市長が変わって状況が変わり、そのまま歳月が流れた。鈴鹿市からロシアへの働きかけはもちろんない。
それから20年、このたびイルクーツク市から訪露の打診があった。

それは鈴鹿市が受けて立つべきものではと思うし、国がバックアップしてしかるべきほどのものであるとさえ思うのだが、そこら辺の事情はわからない。今は一市民である衣斐氏が、NPO文化塾としてこれを受け、この旅の団長となった。

募集の呼びかけに応じた方々は、「光太夫の会」(ここでは「太」になっている)の会員がたはじめ20人を超した。公募もしたので、中にはシベリア、バイカル湖などに惹かれて応募された方もあっただろうが、とは言え皆さん歴史への造詣の深い方々ばかりであった。この仲間たちが光大夫を辿った。何をするにつけ、見るにつけ、「光大夫さんは・・・」と感慨にふけったに違いない。

野遊はといえば、団長より「この旅の、ざっとした全体的な執筆を」と言われて、応募の締め切りを過ぎてから加わった唯一の外部参加者である。

そんな野遊が今、ある言葉を思い出している。
光大夫の会理事の、移動のバスの中での言葉。
「光大夫は特に偉人でもなんでもない、ごく当たり前の、普通の人だったんです」

この言葉を発する彼の目は微笑んでいた。それは光大夫を誇りに思い、尊敬と愛情に満ちた微笑みであった。

そうだ。光大夫は普通の人だったのだ。それが突然思いもよらぬ運命の波に翻弄され、母国に帰るためだけにすべてを投じたのだ。船に積んできた物と、自分の命以外は何もない。甘言にも惑わされず頑固に帰国を願い続けた光大夫は、ただ懐かしさだけで帰国を望んでいたのではない。あの唐天竺なる国よりもさらに遠い得体の知れぬ大きな国の、まばゆい文化を目にしたからには、それを母国に伝えたい、愛国の一心だったのではないだろうか。
彼はごく普通の、偉大なる日本男児だったのだ。


白子の浜から船出した光大夫一行の魂を、後世、地元の人々は掘り起こし、想いを重ね、ロシアまで辿った。辿りつつ光大夫を語り、イルクーツク市の方々との友好を再び燃焼させた。
過去の人を大切にする三重のお国柄。
ただひとり鎌倉から参加した野遊は、自分が外部の者でよかったと思った。
でなければこんなにこの仲間たちを賛美できないから。

光大夫さん、お伊勢さまのお膝元、三重の出身でよかったね・・・・