恩師村田邦夫先生 1、はるかなる連弾「授業をもっと受けたかった」

昔々の思い出です。

湘南学園高校の古典の授業、単位を取る正規の授業ではなく、1週間に1度だけ、古典演習として受けた野遊の時代の湘南学園生は、中学主事となった村田先生の授業を受けられるだけでもラッキーだったと思うべきか、その1年前の先輩方ががっちりと古典、漢文を受けたのだから、アンラッキーだったと思うべきか。

高校2年のとき、3年になったら村田先生の授業を受けられると、そればかりをひたすら楽しみにしていた野遊は、先生が中学主事になられたと発表された日の夜、布団を被っていつまでも泣いていた。

それなら中学生に戻りたい。先生の授業を受けたいと。

1年のとき、これも週に1回だけ、村田先生の文法の授業があり、あまりに魅力的で刺激的な50分に、息をするのも忘れるほどだった。

勉強とは己が為すものながら、導く教師の力は絶大だと思う。

その1年を過ごし、2年生ではひたすら3年生になる日を待ったのに…

あきらめきれずにいた4月、中学主事ながら村田先生は、高校3年生の授業を週に1度だけ、持ってくださった。急きょ、そうなった。それだけでも野遊は躍りあがるほどうれしかった。野遊にとって、学園生活のすべてがそこに凝縮されていたといっていい。

先生の授業数は中学全般と受験生(我々)、ものすごく多かったと思う。村田邦夫50歳。先生の恩師佐々木信綱が逝き、その間もないころのことである。

先生は1分だって授業時間を無駄にはしなかった。チャイムとともに教室に入ってこられ、起立礼の後、すぐに授業が始まったものだ。

先生、先生、野遊は今、こんなことを書いています。どうしてかって、野遊は今、先生に、ご報告したいことができたからです。どうやって書き出していっていいかわからない中で、ようやくここまで書きました。