恩師村田邦夫先生 5 はるかなる連弾「横浜学院が好きだったのね」

野遊の叔父は湘南学園の化学の教師で、村田先生が高校主事として新任され、10人以上もの新教師に一新された年に就職した。野遊の入学した年だ。若かった叔父は、ひたすら村田先生の教えを守り、一生懸命勉学に励み、良き教師を目指していた。

いつも勉強、仕事に励み、電車の中でも採点作業をするなど大変忙しかった。何もしないのは道を歩くときくらいだと言っていたことがある。何しろ主事の村田先生が、びっちり忙しかったので、若い教師たちは見倣ったのだろう。

その叔父も、村田先生が横浜学院に転校されてから、ほかの人たちと同様、先生にぷっつりと交際を絶たれていたのだが、鵠沼の駅の近くで偶然お会いしたことがあるそうだ。

お茶したそうだ。そこで村田先生から、横浜学院の坂を登った上のほうにある高校から声をかけられたが、断りましたというお話を聞いたそうだ。だって毎朝同じ坂を登るので、横浜学院の生徒に会ったら、あの子たちはどう思うだろうと言ってらしたとか。

そこは優秀な高校で、村田先生ならそういう生徒たちに教え伝えるほうが合っているのに、なぜ行かなかったのか。先生はご自分のしたいことよりも、義理人情のほうを大切にする方だからだろうと、叔父は言った。

先生が湘南学園を去られるときも、「村田先生は自己犠牲の上に生きていく人だ」と叔父は言い、涙を流したことがある。野遊はその言葉を思い出していた。

先生は、なんでずっと横浜学院に勤めたのだろう。学園を去られてまずはとりあえず、という感じに受け止めていたので、先生が転校されなかったことが、野遊には不明のままだったのだ。

あれから幾星霜、というほどの歳月を経て、野遊は今、ようやくわかったことがある。先生は横浜学院が気に入っていたのだ。横浜学院の生徒たちが好きだったのだ。こう思うと、いろんなことが解決する。これで長年のもやもやが晴れた。