大黒屋光大夫を辿る旅 11 ダモイ

太夫を語るときシベリアは欠かせないが、歴史はその160年後、日本人とシベリアに、新たなる深い関わりを刻ませた。光太夫の場合は自然の力により、後者の場合はロシアの故意により。同一点は、いずれも日本人の意思はそこになく、彼らは10年という年月、「ダモイ」「ダモイ」・・・ふるさとを思って煩悶した。

第二次世界大戦後、満州、朝鮮、千島、樺太にいた日本軍のうち約60万人がソ連軍に抑留され、シベリア各地での極東開発に従事させられた。その極東開発事業の一つである「バム鉄道計画」は、犠牲者が特に多かったという。イルクーツクには81ヶ所もの収容所がある。

スターリン崇拝」「シベリア民主運動」という収容所での強制思想教育、同胞同士のリンチ行為、露語のできる情報員の同胞をスパイだったとして吊るしあげる同胞。食事は黒パンをグラムで2個ずつに分け、朝、昼と食すも耐え切れず、朝2個食べてしまい、夕食まで飢えに苦しんだ男たち。黒パン運び役が盗み食いをして、自らを殴って血を流し、「襲われて黒パンを取られた」と嘘をつき、直後(パンは膨らむので)悶絶死。同胞は、同情よりも「こいつ、腹いっぱい食べたんだ」という目を向ける。
「もっと食べさてほしい!」とストライキを決意し、毎日の黒パンを少しずつ丸め、水で団子状にして隠し持ち、営倉(光のない独房)にこもって絶食の刑を受ける男たち。餓死する者、失明する者、記憶がなくなる者。吹雪をついての連日の重労働。日本人が造った建造物は大変精密頑丈で、後世にその成果が現れているそうだ。

日ソ不可侵条約を突然放棄して、メチャボロになっている日本をいきなり攻め、日本がポツダム宣言の無条件での受諾を通達して降伏したのに、その後も戦闘行為を続けて日本人を殺戮したロシアという国。しかもそのあと何十万という日本人捕虜をシベリアで奴隷としてただ働きさせ、6万人以上が死んだ。(人数は実はもっと多かったのではないだろうか)。ロシアのシベリア抑留行為はポツダム宣言第9条と第10条に違反しているにもかかわらず、世界は見て見ぬふりをした。