ヒマラヤ山行(48)番外編 スニーカーボーイⅢ「あのときはしあわせではなかった」

遠い声のスニーカーボーイ、彼の役名はキッチン・ボーイだった。
朝は洗面器に、大して温かくもないわずかなお湯と、ものすごく不味い紅茶を持ってきてくれた。紅茶カップには最初からスプーンがさしてあり、これでお砂糖をかき回すらしいが、シュガーレスの野遊には不要で、ただでさえぬるい紅茶に冷えたスプーンをさしてほしくなかったのだが、「自分だけ次からこうして」とか言えば煩わしいだろうと思い、黙っていた。

ランチも夕食もお茶類にお砂糖を入れない野遊だった。それに、お砂糖壺のお砂糖が半分湿っていて部分的に茶色になっているしバッチィ。

「sugar?」と毎朝聞かれた。「No thank you」と毎朝答えた。「I'm sugarress」と付け加えてもみた。それをトレッキングの14日間、14回繰り返した。

ロッジで時間が余ったときに、シェルパがたは食堂の隅のテーブルで賭けトランプをしたが、このスニーカーボーイともう一人の青年(ガルモちゃんです、野遊はこの名前が気に入っている)、彼ら二名は大人シェルパのトランプには加われなかった。そばで見ていたり、ブラブラしていた。
ゴーキョのロッジの周辺には雪があり、野遊は彼らと雪合戦がしたかった。ゴーキョまではあんなに苦しかったのに、もう高度はここまでで、体も慣れたのか、体力が余るほど楽になり、ゾッキョの糞を燃料としてストーブを炊く食堂にいるよりも、外で遊びたかったのだ。
でも言えなかった。

最初のうちなら言えたかもしれないが、多分野遊がこのスニーカーボーイを意識し始めたからか、話しかけにくくなっていた。最初も会話(ラリー)はなかったけれど。ましてや雪合戦に誘うなど。野遊が自分の心境に気づいていなかったころ、肩を並べて岩に腰かけて休憩していた当初、もっと会話して、理解を深めておけばよかった。

午後の自由時間に、ひとりで散歩して、ロッジの斜め横手の山に登ったけどね。往復50分くらい。頂上に立って向こう側の景色を眺めた。蒼氷がヌラヌラと光る、ゴジュンバ氷河が見渡せて、その果てにチョラツェ、タウツェの岩が真っ白な衣をまとって聳えている、これはもうとびきりすてきな思い出だ。

それなのにどうしたこと、なぜ野遊の心の一部は、どうしようもないような悲しみが疼いていたのだろう。こんなはずじゃなかったのだけどな・・・「不覚」っていうのかな。

クライアントがシェルパに、住所を書いてもらっているのを見て、それならと野遊もこのスニーカーボーイの住所を書いてもらおうとメモ紙を渡したが、スペルが絵のようで数字か文字か判読できなかった。それを聞き直そう、聞き直そうと思いつつ、ちゃんと向き合って会話しようとすると、もうそのころは鬼コンとか周囲の人が冷やかしたりするし、それが悪気はないのだけど、日本語の通じないスニーカーボーイが(自分の名が彼らの言葉から聞き取れるので)及び腰になっているようで、野遊も及び腰になり、意思の疎通がままならなかった。野遊がもっと堂々としていればよかったのだけど、なんだろね、彼に向かって全然堂々と振る舞えなかったのだ。

3月29日(土)、トレッキングも終盤に入り,どんどん下ったキャンジュマのロッジでは二階の部屋の窓から、ベンチや椅子や、にぎやかな露店が見おろせた。白いロバがいた。

あ、露店のベンチに、スニーカーボーイが座っている。野遊はすぐにそこに降りて行こうとした。でも、彼が一人でいるところに出て行く自分が浅ましく思えた。それに、彼もそう思うであろうことが恥ずかしかった。また、近くのベンチにいるクライアントがたの視線も気になった。

お日様が彼の背中を優しく照らしていた。

今しか、もう話をするときはないだろう。行こう、降りて行こう。と思いながら、野遊は窓の向こうのスニーカーボーイと、白いロバを眺めているだけだった。

あのときはもう、あまりしあわせではなかった。


              *次回はラストワン「Be gone」*