はるかなる連弾  〜我が師 村田邦夫の旋律を辿って〜

村田邦夫という人がいた。佐佐木信綱の秘書だった。信綱は明治大正昭和の歌人であり、第1回文化勲章を受章、万葉集を現代に訳すという大業を為した国文学者だ。
村田邦夫は若き日、折口信夫歌人釈迢空)に逢い、その歌風に魅かれ、信綱の門人として、両者の狭間で苦しみ続けた。が、あくまでも信綱に仕えた。
信綱没後、その故郷三重県鈴鹿市に「佐佐木信綱記念館」が建つ。
村田邦夫は、記念館のソフト面での充実に尽力、記念館を和歌、国学の宝庫とした。自分の功績を表面に出さず、語り継ぐ者に徹して、その晩年を捧げた。

この村田先生は、わたしの高校時代の古典の恩師だ。先生の、圧倒的に素晴らしい授業に、わたしは一生の指針を与えられた。けれど先生は、卒業生を寄せつけなかった。厳しい拒絶の言葉に、教え子たちは先生に近づけなかった。
「卒業後、恩師だ教え子だと睦み合うのは、自分にとって不遜なことなのです。お互いに、すべての思い出を忘れましょう」

村田先生は若き日、教え子たち(旧制湘南中学・今の県立湘南高校)を戦地に送り出したという自責の念を一身に負っていたのだ。もう自分は彼らと睦み合う教師たり得ない。なればこそ一期一会、最高の授業を。己の極めてきた学問の道を、若き世代に継ぎ伝ようとする、本来の教師の姿がそこあった。数え切れない生徒の心に、樹が植えられたことだろう。

村田先生の歌は、信綱の格調高さ、迢空の叙情、この二大恩師をみごとにブレンドさせた、妙なる音色で奏でられている。しかし歌集さえも、先生は自ら残していかなかった。先生は、何に自分を託していたのか。消えていくものにか。先生はこの世を見放していたのだろうか。いや、あがいた日もあったのではないだろうか。

このままでは、このままになってしまう。いかにも惜しい。湘南高校、湘南学園、横浜学院高校の教師、教え子はじめ、村田邦夫先生に携わりのあった方々、先生の思い出を抱えていらっしゃる方々、どうかアクセスしていただきたい。
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