恩師村田邦夫先生 6 はるかなる連弾「墓参」

横浜学院卒業生のその女性は、手紙やメールで野遊に語りかけてきてくれた。村田先生のお墓参りをしたいので、場所を教えてほしい、できたら一緒に、と言ってきた。鈴鹿にも行ってみたいので、一緒にと。

村田先生のご遺族の方から、墓所を公開しないでほしい、墓参は遠慮してほしいという意思があることを野遊は知っている。それは、先生の最晩年の偉業、佐佐木信綱記念館での業務に携わっておられた時代の、鈴鹿の市長(僧侶)が、先生の訃報を聞いて盛岡にご遺族を訪ねた日のこと、遺影に向かってお経を唱え、僧侶でもあることから墓所は知らされたが、上記の主旨も受けたのだ。

2007年8月15日、正午、炎天の下、降りしきる蝉の鳴き声に包まれて、盛岡帰りをそのまま立ち寄った村田先生の墓前で、僧侶はお経を唱えた・・・

【破船ひとつ砂に乾きて仰ぎゐる積乱雲が高さを加ふ】村田邦夫

長い長い道のり。村田先生の終戦は、この日であったと思う…
そして、地方の政界で、なにかと荒波にもまれ、最後は公職選挙法違反で前科一犯となって政治生命を絶ったこの僧侶の終戦もまた、この日であったと野遊は思う。

さてこの僧侶はその後、再三再四野遊に、村田先生の墓参を誘ってきたのだったが、野遊は先生のご遺族の意思を無視してまで墓参したくなく、断り続けてきたのだった。

2010年夏、実によんどころなき事情が生じて、僧侶と共に横浜に行き墓参した。

このような事情があるので、野遊は横浜学院の卒業生さんと一緒に、先生の墓参をすることがためらわれたのだった。

また、鈴鹿にいっしょに、という彼女の誘いについては、鈴鹿には用事などで行くことがあるのだが、気軽に出かけるには遠すぎた。

それで、鎌倉の桜でも観ながら、村田先生の住んでいらしたところなどを歩いて、思い出話でもしましょうというようなメッセを送った。いつか、だれかと、これはやりたいものだと思っていたことでもあったので。相手はいないだろうと思ってもいたのだが、野遊はこのたび初めて、その思いを向ける人に会ったのだった。