恩師村田邦夫先生 15 「常軌を逸してハチに問う」 終章

白い道を行く。先を歩く人の影を追う。影は振り返り、「戻りなさい」と言う。ひとこと半句も反論できない、重い静かな余韻が響く。「はい」それしか言えない。

けれど気がつくと、遠い遠い夢の彼方で、野遊はまだその道を歩いているのだ。先を行くその人は、どこに向かっているのだろう。野遊はそれを知らずについて行く…

やがて断崖絶壁に辿り着こうとも、広い野原が永遠のように続こうとも、その果てを野遊は想像していない。ただ、その人の行くところについて行くのだった。

でも。その道は。終わりのない道だ。と野遊は知っている。どこまでも続く、果てしのない、真っ白な、枯れかじけたサラサラの河原だろうか、うっそうとした深山の懐だろうか。そこに辿り着くのではない。そういう世界を歩き続けるのだ。

その人はこの世にはもういないので、問うて返ってくる現実はない。返ってくる言葉は、野遊自身が創作しているに過ぎない。

けれど現実のように声を聞くとき、野遊は「死してなお(人の心に)生きる」という実感を得る。

「今は亡き恩師の言葉たずさえて 幾夜濃き日を 超えてゆくらん」野遊

わからないままで悶々としていたものが、ある日、遠くからの答えで霧が晴れるようにわかることもある。それは野遊が野遊に出した答えではあっても、その時間があってこそ、気づく一瞬という真実もある。

本覚坊が利休に問いつつ過ごした日々のように。
本覚坊は、この答えを鮮やかな場面として目の当たりにしたとき、ついに自分から利休に言った。「お師匠様、ここでお別れでございます」ようやくそう言えたその日、本覚坊はその寿命を終えたのだ。

村田先生は最後の授業で、「この中に、先生のことは忘れませんなどと思ってくれる子がいるかも知れないが、私は卒業後もなお、恩師だ教え子だと睦み合うのは教師として不遜だと思います。おたがいに一切の思い出を捨てましょう。私は人を信じすぎるためにたまらない」とおっしゃった。

そして後ろの黒板に
【桜の花散りちりにしも別れゆく遠きひとりと君もなりなん】釈超空
と、白墨の粉も飛び散るばかりに書いた。
これはその前に湘南高校での最後の授業も同じだったと、その卒業生方からも、いくたびか聞いた。

村田先生の歌は、こうである↓。

【忘れ合うことのすがしさ 春されば また惜別の文字連ねつつ】村田邦夫

釈超空の歌の方がロマン的で優れているな。
それにハチの歌は、釈超空の歌を完全に意識しての歌だな。
釈超空は、あるだれかを想っているのだろうな。
そこがハチとは違うな。ハチもそれを知っているのだろうな。
対象が違うな、ふたりの。ハチの歌の方が清廉潔白だな。

「人を信じすぎるためにたまらない」というハチの言葉に「先生、わたしはあなたを裏切らないものを、なぜそのような言い方をするのですか」と忸怩たる思いを抱えた野遊だったが、先生の透視眼は語るに余りあった。
世代も環境も思想も異質の相手に持ちきれなくなる重さを期待するのは…書けない。書けるけど苦しい。野遊が「わからんちぃ」だったのだ!書かない!

…野遊は今、野遊と同じ、先生の教え子であったRさんに対して、同じような思いを抱いているのかもしれない。少し、体感したような気がする。

先生、1歩、近づいていいですか。この心をもって先生、今先生に会いたい!!!

先生、あの世はあるのですか、いつか先生に会えますか。このことをお話できる日がありますか。先生の授業を聴けますか。先生、消えてなくなるものってなんですか。そこに残されるものってなんですか。形にならない価値ってなんですか。それは価値といえますか。その価値といえないかもしれない価値に価値を見出して無償の情熱に生涯を捧げた先生の人生ってなんですか。
先生、先生は黄金の釘を、たった1本でも、多くの鉄釘ではない黄金の釘を、劫初より造り営む殿堂に、たしかに打ち込んだのでしょうか!? 目に見えなかったらそれは架空ですか。人の心に残しても、それは架空ですか。人の心がそれを育てていっても、その人が死んだら何も残らないからやっぱり架空ですか。形に残さねば架空ですか。では人の世ってなんですか。地球ってなんですか宇宙ってなんですか、だから!…人の心って…なんですか…「無価値」ってことですか。

〜終わりなきダモイ、濡れそぼる紫陽花の花陰に立ち尽くしたあの日より今日まで、そして涯ての、その涯の世界まで〜

[利用していた鎌倉ネットの運営に変更があり、こちらのメアドも変更、以来ずいぶんたくさんの方々にご迷惑をおかけしてしまったようですみませんでした]2021年
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