野遊・呼吸の世界 10  酸素

(12)ジョンの勘違い・・・アンディを見まちがえる

この日、最初に頂上を踏んだのはアナトリ(スコット隊のガイド、なんと顧客も連れずに単身で)、ジョン(ロブ隊の顧客)、アンディ(ロブ隊のガイド、トップで行った自分の隊の顧客に付き添って)だ。彼らは後続者を待ちきれず、下山を開始した。というのは、ジョンもアンディも酸素を使い果たしているのだ。少しずつ吸っていた酸素だったが、アンディにちょっとボルトを操作してもらったとき、うっかり全開にして、それと気づかずに歩いていたのだ。重いので替えを持つことができない。下山の途中にデポしてあり、そこまでは頑張って歩かねばならないのだ。無酸素で頂上に長くとどまるのは危険だ。くだりでは登りの人たちが優先で、続々とやってくる。そのたびに道をあけ、彼らは1分ごとに疲労を深めていった。はやく酸素ボンベをデポしてある地点まで下りたい!

デス・ゾーン。体温が低下し、目がかすみ、脳細胞が死滅し、肺が壊れる。マラソン・ランナーに、細いストローで息を吸って走りなさいと言うよりも過酷だという。一歩に20回も呼吸するようになってくる。そのために高所順応を繰り返して登るのだが、強い人と弱い人があるようだ。

おかしなことに、ジョンとアンディと同時に登頂したスコット隊のアナトリも単身下山している。おかしいではないですか。彼はガイドですよ。アナトリは最初から酸素を使わずに出かけている。で、下山は急がねばならない。ガイドだというのに登山者として無酸素登頂を果たしたかったのか。それで、自分の顧客たちが登ってくるのとすれ違いながら、彼はとっととテントに戻った。

アナトリが下山途中、最語尾を守る隊長スコットとすれ違い、短い言葉を交わした。平和裏に了解事項を打ち合わせたと、後日アナトリは証言するが、スコットがいない今、これも死人に口なしで、真実は不明だ。スコットは、アナトリと会話を交わしはしなかったのではないかと思う。交わしていたとしても、スコットはすでに、自分が雇ったガイドアナトリに失望し、この期に及んでもう仕方なく、あきらめていただろうので、平和裏な打ち合わせなどあったはずがない。両人の間は、前日以前に、すでに亀裂が生じていた。アナトリの「短い言葉を」というのがそもそも、交わしていなかった可能性が感じられる。短い言葉なら具体的に証言できるはずだ。この件についてはあとで書く。

ジョンが酸素ボンベをデポしてあるところにようやくたどり着くと、アンディが、どのボンベも不良で、酸素が入っていないと騒いでいた。全員が当てにしているボンベがすべて空だなんてあり得ないとジョンは思うが、アンディは中身を探知する器具を使いながら騒いでいる。疲労感にさいなまれながら、くらくらする頭でジョンが調べると、そのボンベは中身が入っていたので、それを担いで酸素を吸った。急に目の前が明るくなり、手足に感覚が戻ってきた。

実際、ジョンがアンディを見たのはそれが最後だった。けれどジョンは大きな勘違いを犯すことになる。ジョンは、そのあとでもアンディに会っていると思い込んでいた。人違いだと判明したのは、事故が起こってずいぶんの日数を経てからだ。ジョンは歯噛みした。アンディはテントに戻っていない。もっとずっと高い所(少なくともボンベデポ地点より下でない)に、アンディはいたのだった。酸素ボンベが使えないと騒いでいたあの時点で、アンディはすでに高所病になっていたのだ。

ジョンはアンディをそのままにして下山した自分を責めた。そして「アンディはテントに帰っていたはずだ」というジョンの言葉によって、事故当時、ロブやベース隊や、たくさんの人に種々の混乱を生じさせた自分を責める。用意周到に登られるべき最終アタック日に、ぼろぼろとミスが続くのは過去の記録にもあるが、背負っている酸素ボンベのボルトを全開にしてしまったり、酸素がないと思い込んでしまったり、人を見間違えてしまったり、どれも、身を置いている呼吸の世界、デズ・ゾーンのなせる業である。

やがて、晴れていた空に雲があがって、夕方4時ころ、にわかに轟音が響き、エヴェレストは吹雪となった。トップグループにいたジョンでさえ、まだサウス・コルの途中だった。(アナトリはすでにテントで眠っていた)
ジョンは何度もへたり込みながら、ようやくテントに転がり込んだ。留守番シェルパが飲み物を持ってきてくれ、アイゼンもはずしてくれただろう。ジョンはしばし意識がなかった。

天気は益々荒れ、気温は下がり、あたりを闇が覆った。