野遊・呼吸の世界 9   アタック日

(11)ロープのセッティングのいざこざ

この時期は、頂上アタックは夜中に出発するやり方が多くなっていた。エヴェレストが初登頂され、以降、ヒマラヤ8000M峰14座(とされている)の初登頂を国々が競った。日本が登ったのはマナスルゥだ。ゴザインタインも日本の初登頂になるはずだったのだけれど、中国が入国拒否、その間に中国が登った。これは日本人が作成した資料を参考にしたことだろうと、深田久弥は言っている。登山のベーシックマナーとして、そこに迫った者に、最初のアタックを譲るべきではないかと、この山についてだけではないが、深田久弥は言っている。もちろん、そのアタックが失敗して年月が経ってしまったら、その限りではないが。

そうやって国々がしのぎを削って14座が登られ、次ぎにあの手この手で二登三登が繰り返され、特に最高峰のエヴェレストは、目新しい登り方は減っていって、もう競争ではなく、できるだけイージーに登れる一般ルートが出来上がっていった。その一般向けとして、アタックの出発時間も見直されていった。

1960,70,80年代の前半くらいまでは早朝にアタックテントを出発して、夜になるまでに戻る形を取っていたが、帰りが遅くなると、暗い中の下りが危険だし、高所ビバークもでてくるので、90年ころには、暗いうちに出発するやり方が主流をなしていた。で、最初の危険な箇所あたりで夜が明けてくるように図った。そして、暗くなる前に戻る。

前日はアタックテント(第4キャンプ)で就寝するが、仮眠だ。もう1日ゆとりを持って、なんていうのは、高度があるからかえって疲労する。7980M、すでにデス・ゾーンに入っているのだ。
5月9日、アタック前日の夕方は風が荒れた。明日は登れるかしらと、不安な気持で全員シュラフにもぐった。朝も荒れていたら、ひとまず下山だ。

5月10日、夜中の二時過ぎくらいから風がおさまった。よし行くぞ。朝食を摂って、準備をしてと、顧客たちは多分時間がかかっただろう。ロブはすべて計算に入れていただろう。ロブ隊はどこよりも早くにテントを出た。

ジョンは、ロブに注意を受けている。一人で先に行かないようにと。それは、今までの移動で、ジョンが顧客の中で最も力があるとわかったので、このアタックでもどんどん先に行ったら心配だからだろう。隊長として当然の忠告ながら、ジョンは皆さんがのろいので、箇所箇所で待つことを余儀なくされ、ずいぶん凍えることになる。ロブもジョンをもっと活用したかっただろうが、顧客なので、それができなかったのだろう。ガイドのアンディがトップに立って、ジョンはそのすぐあとについた。

ここで困った事態が発生する。先にロープがセッティングされてあるべきところ、まだ何も手配されていなかったのだ。打ち合わせで、スコット隊とロブ隊のシェルパが先行してロープを張ることになっていたのだ。台湾隊からは出ていない。この日に登らないと言ったので。ブラジル隊は協力を拒んでシェルパを出していない。

今からでもロープを張ろう、というときに、シェルパが不機嫌で動いてくれなくなった。このシェルパ、すごい不満があったのだ。一緒にロープを張ることになっていたスコット隊のシェルパがいないからだ。実はこれには事情があったのだが、あとで書く。ジョンたちはスコット隊のシェルパを待ちに待ったが寒いし、みんながやってくるし、シェルパをなだめて一緒にロープを張ることとなるが、皆さん下でそれを待たねばならず、思わぬ時間と体力を浪費することとなる。それが最初の失敗だった。

この件について、後日シェルパたちが証言し合うが、意見が一致していない。トップから、ロープを張らなくてもいいと言われたとか、予定が変わったとか。あり得ない。トップ陣はすでにこの世にいないので、真実はわからないままになった。これは、たとえばシェルパたちが嘘を言っていたとしても、管理し切れていない隊長たちの責任ではないかな。

夜が明けてくる。シルエットだった雪と氷の岩壁が見えてくる。真っ先に出発したおばかちゃんたちばっかりのロブ隊は、30分以上あとから出発したスコット隊に追いつかれ、追い越されていく。追い越されないのは、ガイドのアンディと共にトップを行くジョンだ。でも離れすぎると、おばかちゃんたちを待った。そのうちにスコット隊のガイド、アナトリに追い越されることとなる。チッ。