野遊・呼吸の世界 23  雲散霧消

(29)遭難には、きっと原因がある

なんということだろう。アナトリ・ブクレーエフは、『Deth Zone』を出版してすぐ、亡くなってしまった。アンナプルナで雪崩に巻かれて。・・・山に行く人っていうのは、やっぱり山に行くのだな。入山料を支払うと、向こう5年間有効なので、この期間に行けるだけ行っておきたいと思うそうだが。アンナプルナの雪崩なら、アナトリほどの登山家でも、相手にとって不足はない。と言えるかな。しかし優秀な登山家をまた失って・・・残念だ。

このことにより、ジョンとアナトリのバーサスはそれっきりになってしまう。もっと期間があったなら、理解し合えたかもしれないと、ジョンは哀悼の意を捧げるのだった。

けれど問題は解決していない。亡き人を鞭打つことはできないので、亡くなってしまうと、評が甘くなるのだろうか。アナトリだけでなく、スコットも、ロブもだ。あの遭難は何が影響したのか、何がいけなかったのか、同じ轍を踏まないためにも、もっとはっきりと分析しておくべきはずのものだと思う。けれどあの事件は、個々で感想を言う場はあっても、何かすっきりしないままのように思える。

一度の登山で死者を10人以上出したのだから大事件なのだが、その後、ヒマラヤひとシーズンに同じような人数の死者を出した年もある。そしてガイド登山は益々進出している。海外の山などで、どこどこに行ってきましたというのは、たいていガイド登山参加だ。個人で登山するより、人数的には圧倒的に多い。国内の山でも益々増えている。もし内部状況や、天候など、あの日と同じような条件が重なってしまったとしたら、あっけなく悲劇を繰り返すのではないかと。あの遭難事件は、今後の参考に、あまりなっていないように思うのだ。

エヴェレストは変わっていない。人々が変わった。死の世界といわれていた時代から、酸素ボンベの墓場といわれるようになり、さらに、追いつかないながらそれらを掃除する人々が出てくる時代になっている。「雪のありどころ」としか表現し得なかった純白の時代から、なにがどうしたのか。

「ついにその頂上を明け渡した」「サミットは征服された」「落ちた」という表現がなされ、それは単なる表現なのだが、やがて、恐れの気持を前面に出し、「踏ませていただいた」とか言う登山者も出てきた。どれも関係ない。「エヴェレストは怒り狂い」「神々の哄笑を聞く」というような表現も関係ない。そこに山があって、気象状況のままにあるだけだ。

でも人間は自分に心があるから、立ち向かう相手にも心が宿っているように感じるのだろう。わたしだってわかっているけど、雪まみれになって歩いた冬山で、(一人で歩いていた)思わず「雪のバカ!」と叫んでいたことがある。でも、気の遠くなるような静寂の中で、雪がどんどん迫ってくるように思えて、だんだん恐ろしくなってきて、この声が(雪に? 山の神に?)聞こえていたらどうしようと。で、「雪さん、ごめんなさい」と謝り、「どうか行かせてください」と頼んだものだ。あのときは本気だった。
「行け行けど 白く光りて迫りくる 雪に命はなかりしものを」と詠んだ。

山の意思のように感じられても、そこに魂はない。太古の昔から同じかといえば、人間が地球に手を加えたことによって、進化、変化、劣化してきたことはあるが、それも自然の意思ではない。どんなに踏み荒らされても、回収不可能な登山用具が置き去られても、雪に混じって流され、また現れ、クレバスに葬った遺体もゴミも消失はしない。自然は何も「していない」。人間が「している」。

でも登りたい。遭難は悲劇だ。自然を図ることはできないから、天災は避けられないが、人間がやってしまう遭難は、天災の場合でも、どこかに人為的なものがあるのではないだろうか。いや、そうとは言いきれない。けれどかなりの確率で、そうと言える。だったら我々人間は、遭難事件をもっと参考にし、厳しく分析していく必要があるのではないか。