野遊・呼吸の世界 16 表面に氷が張っていた難波康子

(20)難波康子2

≪難波康子1は「呼吸の世界7」に記述してあります≫

置き去られて逝った難波康子。

(難波康子については、ひとつ前のNO,15も、お読みいただけましたら)

このアタック日、手間がかかったのはベック、康子、ダグだろう。ベックは先ほど書いた。ダグはあとで書く。康子だ。彼女は、本当に足を引っ張る存在だったのか。そうは思えない。繰り返すが、過酷なベース・キャンプまでの道のりでも彼女はくたばらず、不自由な食生活も自力で処し、移動もビリではなかった。

アタックで背負う荷物は、顧客は個人装備だけだけど、重い酸素も入れて男女変わらない。チップを弾んでひそかにシェルパと手を結ぶ、なんていう器用な真似もする人ではなく、隊長を信じて、言われるままの状態を、自ら引っ張りあげていったのだ。

アタックで、まだ設置していないロープにしがみつこうとしてマイクに諌められたという証言があるが、それも、彼女が遭難死したことにより、彼女についての何かを書くべく、ジョンが彼女のそばにいた人の話を取材したのだ。でなかったら、つまり彼女があからさまに立ち遅れている存在だったなら、彼女はもっともっと書かれたはずだ。このことが異常に強調されたように思う。

ガイド登山後につくられた『エベレスト』という映画でも、そこを「強調」しているのが残念だ。それはいかにも「こんなだったのですよ、遭難した人は」といった個人への採点といった感じで、営業登山についての一矢になり得ていない。何も抗わずに康子役を演じた続寿美代、情けない。やめなさいよと言いたい。(それも演技自体がヘッピリゴシで稚拙だった)(あれを世界に見せるのかと思うと許しがたい)

また、たとえ康子が足手まといな存在だったとしても、それは康子の責任ではない。先に参加を承諾した隊長の責任だ。ベックやダグのような足手まといでも、彼らに非はないのだ。ガイド登山なんだから。そういう人に参加OKを出した隊長が責任を以って面倒をみるべきだ。隊長が途中でダメだと判断したら、そう告げるしかない。その場合も、(本人が急病とかならともかく)登らせることができなかった隊長の、全面的にではないが責任と言える。命を預けて多額の料金を支払った、「しょせんガイド登山」なんだから!

康子に付き添っていた隊長ロブは、途中でダグについた。ダグの方が気がかりだと判断したのだ。康子にはマイクがついていた。14時過ぎ、難波康子は登頂した。7大陸を踏破した初の日本人女性だ。ブラバ。

頂上には何人もの登頂者がいたので、彼らのその日の歩みの平均的人数に、康子は入っていたのだった。けれど、それはずいぶん遅い時間だった。それは前述のロープ問題とか、台湾隊の行く手さえぎり登山などが影響している。もっとも、そういう不慮の事態を想定して計画が為されていたはずであって、予想が狂ったせいにしてはならない。(わかっちゃいるけど残念だ)

最初の目的は14時登頂。その時間になったら引き返すことになっていた。それが、14時か15時か、あいまいな情報が飛び交い、頂上を目の前にした彼らは、15時だと思いたくなってくる。いずれにしても、もっときっちり決め合っておくべきは当然なのに、いったい隊長はどうしちゃったんだろう。全部その場で判断できると思っていたのだろうか。ロブは、何度もエベレストに登っているので、自分は大丈夫、全体を見てその場で判断を下せると思っていたのではないか。下せるはずだった。でもできなかった。彼は体調がよくても、顧客ダグを連れて行くことに予想外の労力が要ったのだ。

ガイドのマイクもどうしちゃったんだろう。頂上で、喜んで抱きあったり写真を撮ったり歩きまわったりしていたのだろうか。時間を考えれば、頂上はタッチして即引き返すべきだった。そんなわかりきったことが、なぜ、なぜ守れらなかったのか。
彼らは頂上でなんと40分もとどまっていたという。30分早く、いや、20分でも、せめて10分早く降りていたなら、突然の轟音を聞くのはもっと下の地点となっていた。10メートルでも多く降りていたなら、事態は変わっていた。知っていただろうに、8000Mの恐ろしさを!

さあ降りましょうとガイドに言われるまで頂上を満喫していた彼らも、本当に、まったく、なんというおばかちゃんなんだ!顧客の身だってしっかりせよ、エヴェレストに行く者たちではないか。近所の山にガイドつきで登るのとは違うんだぞ。どうして言わなかったんだ、急いで下山しようと。

わたしが難波康子に非があると思うとすれば、ここだ。頂上にとどまった彼らをいぶかる言葉は多々あるが、それはもちろんガイドに対してであり、次に登頂者全員に対してである。そりゃそうだ。みな、ガイド頼みに過ぎる。いくらガイド登山でも。
西洋人の、しかも男性の多い中であろうと、女性の立場であろうと、日本人であろうと、そういう意識が彼女の中にあったとしても、ここははっきり主張すべきだった。気づくべきだった、難波康子女史よ。

マイクは下山途中でベックに出会って、こちらのほうがより不安定なのでフォローすることになり、やがて康子は一人下山となっていった。そしてまだメドの立たない地点で、あの轟音時間を迎えてしまうのだ。それでも康子は正しい方向に下り続けてはいたのだ。そのうちあちらこちらと半遭難者が集った。ガイドたち、シェルパたちともども迷い、体力尽きたクライアントたちと共に彷徨する。

寄せ集め集団でテントの反対側の山腹、カンシュン・フェースに迷い込み、少し体力の残っているロブ隊のマイク、スコット隊のガイドのニールとシェルパ、クライアントたちなど数名が、ともかく先にテントに行くことになったとき、康子の腕がニールにしがみついて、そのままスルスルと力が抜けて倒れていくのを放って進んだという。ニールは次の日、それを思い出して泣いたという。

長身のべックは、自分は放って置かれても仕方ないとして、あんな小柄な日本女性を、何とか抱えて助け出すことはできなかったものかと言っている。できなかったんだできなかったんだ・・・できなかったんだと思おう。思うしかないじゃないか、難波康子はもうこの世にいない。

その最後までつつましい存在で逝った人よ。日本では思い切り元気よく、気も強い女性だったのだと思う。じっとこらえて、登頂のために体力を温存し、精神を押さえ込めて自己を支えた人よ。どうか最後は、苦しみがやわらいでいましたようにと祈る。優しい夢に包まれて意識途絶えましたように祈る。温かい空気を感じながら息絶えましたように祈る。