野遊・呼吸の世界 15  『生きながら残されて』

(18)サウスコルで置き去りにされた2名

自社の顧客3人をテントに連れ戻したアナトリは、もうテントを出なかった。ロブ隊の顧客、「アメリカ人男性と日本女性」(という程度の認識だった。なにせほかの隊なので)を残してきたことを承知していたが、ほかのだれも行こうとしなかった。自力で歩けない人を、この吹雪に連れ戻すことは、二重遭難の恐れもある。でも、場所が判明していて、できないものだったのだろうかな。テントには、まだ元気な人間がいたというのに。岩壁でもなく、テントから歩いて20分。どうしても納得できないな!仲間同士でないということは、こういうことか。

10日から11日にかけて、エベレストは吹き荒れた。明るくなると、ようやく小康状態を得た。アナトリは登って行って、スコットがバルコニーの下りで座りこんだまま息絶えている姿を発見し、葬る。といっても、雪で姿を隠してやるくらいしかできないのだが。

ロブ隊の賢3人のうちのスチュアートは体力を回復して、サウスコルに出て行った(だれかと一緒に行った)。テントからしばらく歩いていった雪原に、彼はベックと康子を発見する。2名とも同じ地点で倒れていた。二人は死んでいるように見えた。よく調べると、二人とも息をしていた。でも無反応で全身カチカチに凍っていた。体が氷に覆われていた。心臓病医のスチュアートは、もう助からないと判断してそこを去る。

それから何時間か経った。突然、ベックは鮮やかな夢に揺り動かされて目をさます。彼は一人で転がっていたそうだ。スチュアートが見たときは康子と一緒だったそうだが、目覚めたときは一人だったというから、ベックは夢を見ながら移動していたらしい。起き上がると、素手の片手は頭の上で凍りついてはなれない。ヨタヨタ歩きながら、荷物も何もない状態で、ここで倒れたらおしまいだ、何とかテントにたどり着こうと思う。ベックは風の吹く方向を見定め、ある見当をつけて歩き出す。これが正解で、ベックは目に見えない力に導かれるように、徐々にテントに近づいていっていたのだ。

ベックは「私はメジャー級の尿意をもよおし、歩きながら失禁した」
「そのときだけ、下半身がちょっと温まった」(ママでない)。と書いている。
そして自力でテントにたどり着く。みんなの足を引っ張ったベックだけど、なんともあっぱれではないか!

テントでは、スコット隊長、ロブ隊長と帰っていなくて、皆がドタバタしていたが、向こうから近づいてくる男がだれだかしばらくはわからなかった。まさか、遭難死したと思っているベックとは考えられなかったのだろう。喜ぶとかいうより、真っ青になってしまったようだ。

それから皆はベックの頭にくっついた手を溶かし、両脇にカイロを挟んで、シュラフを二重にして寝かせてくれた。帰ってこない人のシュラフが余っていたのだ。そこでベックは何度も意識を失い、目覚めては意識を失い、夜になった。11日の夜は暴風が吹き荒れた。帰らぬ人のテントにひとり寝かされて、腫れた手首に食い込んだ腕時計を、はずすことができずに悶えるベックの顔面にテントが張りつき、窒息しそうになりながら、それを手で撥ね退けることもできず、ベックは隣のテントに向かって叫ぶ。でも、風がその声を吹き飛ばしてしまう。みんな、ベックはあのまま息絶えてしまっただろうと確信していたのだ。


(19)奇跡の生還

5月12日、晴れた。皆下山の用意をしていた。遭難者を出したこともあり、彼らは静かで、ベックは気づかなかった。ここでもベックは置いていかれるところだった。ジョンがお別れにと、下山間際に、ヒョイとテントをのぞいた。で、ベックが「何度呼んだら来てくれるんだ」とか言ったので、生きていることを知り、またびっくり。ベックは意識を失ったりを繰り返していたので、もし、ジョンがテントをのぞく一瞬に動かなかったなら、置いていかれただろう。ベックはすごい強運を持った人だと思う。

一緒に下山することとなり、ベックは2リットルの水を飲み干して出発した。ここからの下りは、スノーボートはまだ無理だし、背負って歩くのも不可能だ。だから遺体は雪の中か、クレバスに落として葬るのだ。ベックは自分の足で歩かなければならなかった。アイゼンは3日前の未明に装着したままで再び立ち上がった。凍傷で自由に動けず、垂れ流し、ベックはフォローを受けながら自力で歩いたんだとさ。うう・・・あっぱれベック、あっぱれベック、絶体絶命のその瞬間まで、一縷の望みがあったらそれに向かって命を燃やせ。頑張れ、頑張れ。

ベックをフォローしたのはだれか。ガイドのマイクも、比較的元気な顧客たちも、ほとんど視力を失っているベックを下ろすことができない。遭難を聞いて救助に切り替えて登ってきた国際隊(米)の隊長トッド・パールソンと、ガイドのピーター・アサンズの2名だった。緊張の連続だったことだろう。

彼らは死と隣り合わせの恐怖と苦労の末、ベックをローツェフェイスに連れ出してくれた。ようやく第3テントまで下った。べックはもうどったりと倒れたかったが、7300M。まだ上すぎる。第2テントまでは頑張れと言われ、歩くぞと決心する。

ここでフォローする人が交代する。IMAX(米)遠征隊で、彼らはエヴェレストの映画を撮りにやってきたのだが、救助に切り替えた。隊長のデヴィッド・ブリーシャーズ、映画の主役を演じるクライマー、エド・ヴィエスチヤーズ、カメラマンのクライマー、ロベルト・シャウアー(豪)。
と書いていくと、日本語の名前と違って、カタカナなので、一気に頭に入ってこない。特に顧客やシェルパの紹介などとなると、さっぱりで、自分は本を読みながら、「ええと、この人は何だっけ」と、何度もページを行ったり来たりしたものだ。だからここではなるべく簡潔にと思ったが、自分たちの仕事を放って救助に当てたこの隊の方々の名前は書いておこうと。

この隊は後日改めて登山し、『エべレスト』という、この遭難事故の映画を作っている。難波康子役は続素美代だ。

IMAX隊は、キシャポッポみたいになってベックを守り、ウェスタン・クームの第2キャンプまで送ってくれた。ここが6500M。医療品などもあり、点滴を受けたそうだ。注入前にチューブをお湯に浸して温めてくれたそうだが、それでも冷え切った中の液が血管に流れ込むとき、激痛が走ったそうだ。叫びながらもベック堪える。

最初から登山靴でマメをつくったり、歩きが遅かったり、目が効かなくなったり、せっかく見えてきたときに、こすって氷の破片で目を傷つけてしまったり、ずっと一人で隊長を待って凍えたり、手袋を風にさらわれたり、次から次へと失敗をやらかしたベックだが、あきらめなかったところが偉い、強い。

翌日ベックはヘリコプターで救助される。このような高所をヘリコプターが飛ぶのは危険で、操縦士も命がけだった。そのとき、上方でへたり込んで救助されてここまでやってきた台湾隊の高と一緒になり、高のほうが動けなかったので、ヘリコプターは高を乗せて行ってしまう。そして半分絶望の内に待っていると、ヘリコプターは高を降ろして戻ってきた。トルル、トルル、とプロペラ音が聞こえたとき、ベックは思った。「助かった」。ベックはこの登山で、恩人だらけになる。

両手両足指を凍傷で落とし、鼻の手術もしたが、ベックは生還した。あとでベックは、あんな有名人たち、偉大なる登山家たちに囲まれて山を歩いたなんて感動もんだったと言っている。ベックはテキサスの実家に息子と娘と、素敵な妻がいて、この妻が八方手を尽くして、あのような高所にヘリコプターを飛ばしたのだそうだ。ベックはうつ病から脱出したくて登山を始めたそうだが、彼の遭難記述は不思議な明るさが漂っている。