野遊・呼吸の世界 12  登山ラッシュ

(14)ベック・ウェザース

話を午後過ぎに戻す。天気はよかった。5月10日、頂上に向かって、30人以上の登山者がひしめいていた。1本のロープに群がる登山者たち。凍え、体力を消耗してこれを待つ後続登山者たち。食パンみたいに固まって道をあけない3人の台湾隊。

やがてロブ隊の顧客3人、スチュアート・ハッチスン(心臓病医)、ルー・カシシケ(弁護士)、ジョン・タースケ(麻酔医)が、時間を数えて、この状態では頂上にたどり着いても帰りは夜になってしまうと思い、相談してuターンを決める。と、簡単にいっても、これはもう大変な決意なのだ。勇気という言葉が悲しくなるほど切ない勇退なのだ。彼ら「賢3人」は、頂上を目の当たりにして「敗退」する。もうそのころは、ロブ隊、スコット隊、台湾隊と3組が混じり乱れて、賢3人が下山を決意して隊長にそれを告げたか、了解を取ったのか、何か言葉を受けたかなど不明だ。多分彼らは後尾の方にいて、待ち時間が多くて絶望したのだろうが、ロブよりもっと後ろにいたのではないかと思う。ガイドのアンディはトップを行っていたので、もう一人のガイドのマイク・グルームか、近くの誰かには告げただろう。

3人は下りの南稜のあたりで、同じロブ隊のべック・ウェザース(前述)に会う。おやこんな所で何をやているのかと驚く。わたしが、賢3人はuターンをロブに直接告げなかった(告げられる位置にいなかった)と思うのは、もしロブに告げていたら、ロブからベックのことを聞いただろうと思うからだ。賢3人は、ベックが途中で止まっているとは知らなかった。

ベックは夜目が効かず、出発時、夜が明けて明るくなるまではすごく苦心してほぼ「あてずっぽう」で登っていたが、せっかく夜が明けかけてくると、目をこすって氷の破片で傷つけてしまったとかで、ついに足が前に出なくなり、
「目が見えないからここで戻る。けれど目が治ったらあとから行きます」と、ロブに告げたのだ。するとロブは、まだ後続隊が続いていたので、
「30分猶予を与える。それで目が治らなかったら登らないでくれ。自分が降りてくるまでここで待っていてくれ」と言った。
ロブはベックの滑落を心配して、ベックに、一人で降りてはならないと言ったのだ。

日が射してきた。ベックはロブとの約束を守って待っていた。どのくらいベックが待ったって?
信じられないことに、10時間くらい待った。だって朝になって目が見えるようになった途端に氷片で目を傷つけ、待ちながら日が射してきて、やがてまた暗くなって目が効かなくなるまでそこにいたというのだから。

後日ベックは識者たちから「いくらなんでも彼はあなた任せすぎる。そんな場合、自分の命は自分で守るものだ」と非難されたりするが、もっともなことながら、彼にしてみれば、隊長ロブはなんの不安も疑念もなく頼れる存在だったのだろう。頼るから登れて、頼るから下れる。ガイド登山の場合、生意気言ってくる生半可な顧客よりも素直で扱いやすい顧客のほうがいい。ただし例外場面がある、それがこれだ。ロブの言葉を信じて疑わなかったベックは「ロブが登頂を済ませて戻ってきたら一緒に戻るのだ」と、思い込んでいたのだ。

下山してきた賢3人は、「一緒に下ろう」と誘ってくれるのだが、ベックは「ロブと約束したんだ」と、断ってしまう。だって何時だと思っているんだ。もう暗くなりかけているんだぞ。ロブが登頂するのには時間がかかるだろうと、3人はラッシュの様子を話しているんだぞ。おばかちゃんベックは残った。

それからUターンする人がぼちぼちやってきて、何人か見過ごしていくうちに、やがて登頂を済ませた人がやってきた。ジョン・クラカワーだ。ジョンもベックを見て驚く。一緒に下ろうと言う。ジョンは自分のことも不安だったが、言わずにいられなかった。だってあたりはもうずいぶん暗くなっていて、ベックはほとんど目が見えなくなっていたから。でもジョンは、「あとからマイクが来る」とつけたした。そりゃあよかったと、ベックはほっとして、マイクを待つこととする。やはり、できることならガイドと共に行動したい。顧客の負担にはなりたくないのだ。

ジョン・クラカワーは、このことについても慙愧の思いに堪えないと書いている。自分についての不安もあって、ベックをマイクに任せて単身で降りてしまったと。ベックを誘って一緒に降りればよかったと。でもそれは仕方ない。ジョンは顧客だ。ガイドに手間をかけず、まずは自分を支えられればいいのだ。ベックと降りていたとして、二人が遭難しなかったとは言えないし。

で、ベックがさらに待っていると、登頂組のマイクと難波康子らが降りてきた。酸素マスクをしっかり当てた康子は、この時点でふらふらしていたそうだ。ロブは遅れたダグ・ハンセン(前述)を連れて、まだ頂上を目指しているそうだ。もうほぼ全員が登頂をすませ、あるいは途中で断念して下りにかかっていた。目の見えないベックを連れて下山するマイクは、ずいぶん苦労しただろう。康子はこの時点で、自力で下山することを余儀なくされた。もう、どっちも、歩調ばらばらで、一緒に下ってなんかいられなかっただろう。どっちが振り切られたか、振り切ったか、定かではない。

そして轟音が響き、吹雪となる。そのとき難波康子は一人だったのだ。