野遊・呼吸の世界 24 エヴェレスト、微妙な想い

(30)際限なき夢想・・・終章

呼吸シリーズ、24回となった。この(30)の小見出しを記したところで、終章としよう。個人感想とはいえ、ずいぶん荒削りに書いてしまったようで、隙だらけの文章だったかも。どうかご海容願います。

わたしは最初の項1の(1)に、ジョンとアナトリのバーサスに判断を入れたい、と書いた。が、今思うと、ジョンとアナトリのバーサスそのものに興味があってのことではなかった。あの悲惨な大量遭難について、登山について、細かくあれもこれも、自分の中で整理がついていないジレンマがくすぶり続け、とつとつと、書き出していったのだった。そうすれば、何かわかるかもしれないと、雲をつかむように思っていたのだった。結局、わからなかった・・・。けれどそういうものなのだろう世の中って。ということがわかった気がする。

人間は欲と接しながら一生を過ごす。物欲、名誉欲などへの「求不得苦」。性欲へは「五蘊盛苦」か。食欲もある。満たされても満たされても、それを起点としてまた求めていくのが人間だ。山に登りたい。この世で最高といわれている山に。これ以上高いところはないというピークに立ちたい。最高にきれいと、人々が賞賛する山、あるいは自分がそう思う姿の山。最高に峻険な山。最高に難しい種類の岩壁。登りたいから何とかしなければならない。この道で瞠目され、スポンサーをつければ資金ができる。あるいはまた、登りたい人々を案内すれば資金ができる。

でも、お金も何もかも、真っ白になってしまう一瞬があるのだろう。巷で目がくらむのはお金の場合が多いけれど、本当に最終的な欲は、体力限界の世界で、最終的に顔を出してしまう。営業登山社長も、最高地点を眼前にして、ただの個人になってしまう瞬間があるのではないだろうか。それはただの欲。すべてを無にしてしまう純粋な欲。登山欲。人間が求める最終地点かもしれない。自然の魔力に突き動かされる。

自分に力があると、さらに一等賞になりたい。だれが(どこの国が)未踏峰の第一登を為すかが注目されていた時代は過ぎた。今はもしかしたらもっと純粋に、人はヒマラヤに登るのかもしれない。富士山に登って、頂上近くで、「さあ、あなた、先にサミットを踏みなさい」と、道を譲ることはほぼ考えられない。人との比較じゃない。自分と山。人々の関心を意識し、発表されることを意識しながら登るのでなく、自分がそこに立ちたいから登る。体験を得たくて登る。エヴェレスト、世界の山々もそうなってきているのだろう。もう競争しなくていいのだ。

なぜ山に登るのかと、嘆く人もいる。愛する家族に向かって。仕事(収入)につながらない場合は、道楽にみなされる。そう、究極の遊びだ。Play of play.周囲をハラハラさせてまで、なぜ登るのか。それは、何でバイクに乗るのかという問いと同列だ。芸術家も文筆家も収入につながらないうちは、家族を嘆かせる。でも登りたい。そういうふうにできているのだ人間は。

そして、そんなに登りたい山なら、大事にしようという気持も進歩してきた。と、思いたい。(残念ながら昨今も、平気でゴミを置いていく登山者がいるが)

ガイド登山についても、ついにわたしは否定も肯定もできず、微妙な気持のままだ。こつこつと登る個人の登山家もいる。すでに過去の競争とは趣が違っていても、やはり自己記録を意識して行動する登山家も多いだろう。どの場合も、過去の例を可能な限り、あらゆる方面から考察して、美しい登山をめざしてくださいますようにと願わずにはいられない。

夢想する。風の音を聞くとき、雨のにおいを嗅ぐとき、月をふり仰ぎ、満点の星を浴びるとき、自分に超能力があったら、あの時、あの人を、酸素いっぱいの部屋に移動させたとか、あの人の周辺の気温を、もう10度、上げたとか。雪崩を、ジェットストリームをせき止めたとか。具体的に考え込んでしまったりしていることがある。悲しい夢想だ。加藤保男さんの遺体はどこにあるのだろう・・・

けれども夢想が進行していくと、ドラえもんの「どこでもドアー」を使って、猫をエヴェレストに立たせてみたりしている。 〜 THE END 〜