裏剱(9)剱御前小屋にて

剱御前小屋に到着。ここから剱沢小屋まで行けば、今日の予定は終了だ。朝の事故による遅れもあって、予定より遅く到着したが、ここで男性の顧客がガイドに注文を入れた。
「歩き方が早すぎる。もう少しゆっくりやってほしい」
ガイド「ゆっくり歩いているので、これ以上緩める必要はないと判断しています」
「しかし我々の年齢も考えてもらいたい」
ガイド「これは靴マーク5の登山なんですよ。これしきが歩けないならマーク4の登山にして参加してください」
「もっとゆっくりでも時間内に小屋に着けるではないか」
ガイド「私はこの登山の全体を思ってやっているんです。
明日もあるんですよ」
「私だけじゃない、みんな速いと思っている。一人一人に聞いてみればわかりますよ、聞いてみてください」
ガイド「聞く必要はない。私が判断して歩いている」

ガイドの言っていることは野遊にはよく理解できる。明日も続くこの山行で、厳しいコースもあり、そのトレーニングとして今日があるのだということなのだろう。
けれどガイドも、自分がいくらゆっくり歩いていたとしても、後列の人はその速度が乱れて伝わることを、もっと配慮すべきだと思った。

もし速いと感じる人がいたなら、では次は自分の後ろについてみてくださいと示唆したらいいのにと。そうすればその男性も、きっともっと歩きやすくなって、あのようにゆっくり歩くガイドに文句を言わないだろう。
睡眠不足で疲れた体に慣れない初日の歩行は辛く、後にいくほど歩きにくい行列登山で、遅れがちになるのを男のプライドが許さず、彼は苦しくついて来たのだろう。
「みんなそう思っている」と言い切ったのは、彼の前後の男性たちも、ちと速いですなぁとか言っていたのだろう。

ツアーはたいてい女性がガイドの後について、男性は女性の後を歩くので、最初から不利なのだ。男は強いと、若き時代は思っていたし事実なのだが、もうこの年齢で、山歴もそれぞれなのだから、男女の差をなくしてあげたいものだ。
もしガイドがもう少し人間ができた人ならば、顧客のプライドを刺激しないような言い方で、歩行速度を変えずに、彼を満足させる方法を見出そうとしただろう。それはできたはずだった。しかし双方多少感情的になって、決裂してしまった。
ちょっと気まずい空気になった。