ヒマラヤ山行 (15)集落 Ⅰ「エヴェレスト街道は村から村への移動道」

高所の村とはどうなっているのか理解することができなかった。目で見てようやく納得することもある。
カトマンドゥから小型飛行機が飛び立ち、ヒマラヤの山群に目を見張るとき、眼下にうねうねと広がる山々がそのまま直に5,6,7,8000mの高峰につながっているのを見た。さすがに裾野が広く、裾野だけで一大世界を為している。

それを「裾野」というのだろうか。裾野というより、もうとっくに山が始まっている「山そのもの」で、そこを縫うように細く続くのは山道だ。登山道と言っていいのだろうか。というより「ヒマラヤ街道」ですね。

そしてあそこ、ここに白く光っているもの、あれは人家の屋根だ。白く光る屋根が集合しているところは村なのだ。この目で見ても信じられなかった。だって、それはまさに「孤立村」だから。その孤立村が、広い広い高原・・・いや、尾根筋なのだ、高原なんて優雅なものではない。尾根の少し広がったところや山腹などいたるところにへばりつくようにあるのだ。どれもまるで孤立しているように遠い。5000mにも迫ったところにも、登山者のための山小屋ではなく住民たちの村があるのだ!

あの細い山道を行き来して連絡を取り合うのか。何日もかけて荷物を運ぶのか。それで人間は荷運び動物ゾッキョを作ったのね・・・。

この村から村へと歩くことを旅行者たちは「ヒマヤラトレッキング」と呼んでいるのだった。そしてそこを通り抜けてさらに高峰に登ることを「登山」と呼んでいるのだ。

野遊が参加した今回のツアーは、ほぼトレッキングだけど、ゴーキョピークに登るから登山と言えるな。ヒマラヤ初歩的登山といったところだろうか。

飛行機を降りトレッキングを開始してから、野遊はますますわかった!実際にその「山道」を歩いたから。どってことない「ただの道」だった。歩き始めは何これと思った。江の島かここは。山に来たはずなのに、どこも手が施されてあって登山道という感じがしないのだ。そんなに急な登りもない。ルクラ坂があるけど往きは下りだし、ちょっと歩いたらもうランチタイムとかでロッジで休んでいると豪華なランチが出て、食べ終わってからのんびり。(そのときは気づかなかったが、シェルパ方の食事タイムがあって、我々はその間「まったり」していたのだった)(この時間、シェルパはすごく忙しいのだ)(時として悲惨に忙しい)

ランチしたタドコシから、わずか1時間ほどで今日の宿泊地パクティンに着いてしまった。もう行かないの?(と、そのときは思った。不遜にも!)(だんだんわかってくるのだ。後述する)

村から村へ移動するだけで、荷物を運ぶ現地民や動物も通るから、もし険しい登山道があったらそこは手を入れて緩い坂とか階段状にして、ルートファンデングが要る個所もないし、きわどい渡渉もない。増水するとゾッキョが歩けなかったり荷が濡れたりするからだろう。川を渡る場合は吊り橋がかかっている。もちろんゾッキョが渡れる吊り橋だ。

エヴェレスト街道はトレッカーたちでにぎわうが、観光客が訪れない場所にある村は貧しいままだ。そういう村からもシェルパが出て、有能なシェルパなら豊かな暮らしができるようになる。
シェルパとは、いわゆるシェルパ族と限定しているのではなく、観光客やトレッカーや登山者を補佐する仕事を総称してシェルパと言っている。

本来彼らは農耕民族として暮らしているので、シェルパ業務は出稼ぎみたいなものだろうか。本業シェルパもいる。

次回は「集落」大都会ナムチェバザール。