野遊・呼吸の世界2  ヒマラヤ山脈エヴェレスト

(3)近づけすぎた世界最高峰

世界最高峰のエヴェレストは、1920年代からさまざまな視察を経て、マロリーの遭難事故(チョモランマ側)の末、1952年に、イギリス隊によって初登頂された(サガルマータ側)。頂上を踏んだのはニュージーランドのヒラリーだ。以降、二登、三登が繰り返され、次第に未踏の方法が競われだし、南北から登頂したはじめての人(加藤保男だ)とか、モンスーン期初登頂(加藤保男だ)とか、厳冬期単独初登頂(加藤保男だ)とか、世界初3回登頂者(加藤保男だ)とか、無酸素初登頂(形式を踏んだ上でメスナーと言われているが、実際は加藤保男だ)とか、1980年代には、ほぼ、出つくしてしまった。

加藤保男については、1983年、帰路遭難してしまったので、当時はともかく、後世に、彼の行動がいかほどの功績があるものかは、価値ががっくり下がっているので、世界の名クライマーとして、今も「加藤保男だ」と言う人は少なくて悲しいが、遭難しちゃったんだからしょうがないんで。わたしは彼が世界のトップクラスの、さらにトップにいるクライマーだと、今も思っているが。彼についてはいずれ書きたい。今は、その時期以降のエヴェレストについて。

競い合った真っ最中の時代よりちょっと過ぎた1996年、すっかりおなじみになってしまった世界最高峰エヴェレストは、お金を支払えばだれでも登れるようになった。それは、もちろん登山経験もあり体力のある人に限られるが(ま、そうでない人は別に登りたいと思わないのだろうが)、「自分は登りたい。地球で、これ以上高いところはないというところに立ちたい」という思いがあれば、当時1000万以内の金額で行けた。「自分はそれでも登ってみたい」という富豪の人、想像を超えた激務に耐えてお金をためた富豪でない人、いずれにしても、その金額を支払えてなお、装備など自費でまかなえる人々が、ガイドを雇うというより、一切を「登山させてくれる会社」にゆだねて申し込むシステムができあがっていた時代だ。

それはうまくいっていた。会社の社長はいわゆるベテランの登山者で、つまりは山に登りたいのだ。でも登山は資金がいるのだ。ヒマラヤなんて、入山許可だけでお金がかかる。その一昔前は、資金づくりに四苦八苦した登山者(植村直己とか)が、マスコミなどに頼って、ずいぶんな悲劇に出会ったが、他者に頼らず、これをガイド役という仕事にして稼いで、自分は自分の登山をめざしたいという登山家が出てきたのはもっともなことであり、それが高じれば、まっさらの商売になっていくのももっともなこと。日本でもボッカ稼業が昔からあった。

1996年は、ヒラリー健在の時代で、彼は世に「ガイドをつけて最高峰に登ることは由々しきことだ」という意味の文章を発表し、名指して、ガイドを商売にしている同国のロブ・ホールを非難した。初登頂したヒラリーにしてみれば、エヴェレストをそっと大事にしていたかっただろうし、正論を言っているのだから、それになにしろヒラリーなんで、その言葉は重要視された。

ロブ・ホールは、ニュージーランドから栄誉ある世界最高峰初登頂者が出たことを、国が大きな誇りとしていた時代に育った人だったので、あがめるほどの歴史の人ヒラリーに非難されて、どんなに落胆したことだろう。権威あるヒラリーに言われっぱなしでは、ロブも辛かっただろう。言い返すこともできず、行動あるのみと、ロブは目の前に計画されている仕事を続け、そこで遭難してしまう。このニュースを知ったヒラリーは、胸がうずかなかっただろうか。表現法もあろうものを、ヒラリーは罪深いことをしたものだ。

ロブ・ホール。ニュージーランド人。「アドベンチャー・コンサルタンツ」という会社を設立して、エヴェレストに、普通の登山者も、登らせてあげますよと呼びかけて、驚異的な確率で、本当に登らせてしまった人。