野遊・呼吸の世界 7 ベースキャンプ 

(9)難波康子 1

難波康子は、世界7大陸最高峰踏破を目指した。ガイド社に申し込む登山が多かったので、余計なことには煩わされなかったと思うが、自分のみを管理して登って降りてくるだけでも並大抵のことではなく、この世の「山に魅せられちゃった人」のランキング入りたる。登山家と言えると思う。でも、ちょっとこういう表現は不明だ。彼女は自費で登って、普段はほかの仕事をしていたのだから、プロとは違うかね。でも実績を持てばその方面で着目されて、登山費用が捻出できればプロかもね。
そんなふうに思うと、加藤文太郎なんて、生粋のアマチュアということになるけど、押しも押されぬ登山家だし、こういう表現はブレまくり、芸術、文学、スポーツ、どこの世界でもまことに不明だ。まいいや。

すぐ友達をつくれる顧客、印象的に振舞える顧客。言語が違ってもコミュニケーションを持てる顧客。そんな中で難波康子は、みんながくつろいでいるときも、寡黙だったそうだ。印象が薄かったたようで、あとで遭難しちゃったので、そういえば彼女は、こんなふうだったよ、という程度の印象しか残していない。

カトマンズ〜ヒマラヤ山麓の過酷な不潔な生活でも、難波康子は同属民のいない中、一人で耐え抜いた。寝るときは、ヤクーの糞が燃えて、「ディーゼル機関車の排気を、もろに吸っているような」空気だそうだ。ここである事情が生じて、彼らはそのベースに予定以上の日数をとどまらなければならなくなり、具合が悪くなる人が続出した。難波康子はどうだったか。どこにも記録されていないから我慢しきったのだろう。文化的な生活の日本にあって、どんなに過酷であったことか。けれど難波康子は耐え、人に迷惑をかけなかった。

ベースキャンプからB1、B2と伸ばすときも、この登山的高齢者団体は、縦に長い列になっていく。先頭はジョン・クラカワーになっていく。ジョンはこの隊では若手だ。片や同時期に編成されてドッキングしたマウンテン・マッドネスの社長スコット・フィッシャー(米)隊の顧客として参加していれば、体力実力の面でももう少し横並びになっただろうが、ジョンは勤め先の会社が、当初スコット隊の顧客になる予定が、ロブが割引してくれたので、会社がこちらを選んだのだった。スコットについてはあとで書く。

ジョンは登山家だったし、この日のためにさらに自己訓練を積んで参加したので、よっしゃ、取材を兼ねてエヴェレストだぞぉって、ベースでの不潔な空気に咳き込みながらも意気軒昂。だから、隊がモタモタしていると、大丈夫かなぁ、登れるのかなぁ、と心配になった。ロブが、みんなの様子をチェックして、高所に至るまでに、あなたはここらでやめておいたほうがいいですよ、と、フルイにかけてくれることを期待した。事故も心配だし、足を引っ張られるのは嫌なのだ。

ちなみに、後年、この隊ではないが、k2ガイド登山社に申し込んだジェニファー・ジョーダン(米)は、「私が加わるチームのメンバーは、選ばれた人たちであってもらいたかった」と嘆いている。こういう場合、自分の実力以下の人がいると、苛立つだろう。

現にロブ隊の顧客の中には、頭痛で苦しむ人、激しい咳がとまらない人、買ったばかりの新しい登山靴が合わなくて、早くも靴づれに苦しむ人(どこの山に登るつもりじゃ)が出たりしているのだ。でもロブは、そんな危うそうな顧客もろとも、今日はこれでいい、よくやったと言うばかり。ジョンは不安だっただろう。でも、ロブにはきっと勝算があったのだろう。ロブは連れて行くために募集したので、よほどのことがない限り引っ張りあげるつもり。ロブこそはプロなのだ。

名指しはしていないがジョンは、心配だなと思う数人の仲間の中に、難波康子を入れていたに違いない。名前よりも「あの日本女性」だ。たぶんロブも何人か心でチェックした顧客があり、難波康子は入っていただろう。(頂上アタック日は、ロブは最初は彼女についていた)

 
さてテント移動は、列が長くなって、一番で次のテントに着いてしまうジョンは、長い時間、全員到着を待たねばならなかった。けれどラストに到着した顧客は、難波康子ではなかった。難波康子は、こういうことでも人に迷惑をかけていない。

朝食は一人でぽつんと、ヌードルのようなものを食べていたそうだが、自由に話せる人がいない。質問があるときは、仲間内での会話でなく、もっぱらロブだっただろう。登山記を書いた生還者の内、ロブ隊の顧客は複数いるが、だれが何を言ったなどという記述のあふれる中で、難波康子は本当に、意識して拾うのが困難なほど記述されていない。

けれどアタックが近づくに連れて、難波康子の、何かを見つめた集中力は、高まっていったと、これはジョンの記述にある。それはみんなそうだろうし、遭難した仲間として、あえて思い出して記述したように思える。でも、はたからそれが感じられたのも事実だろうと思う。山入りしてから長い期間、ずっとエヴェレストだけを見つめて過ごしていたのだろう。この日のために何ヶ月も孤独を友に、自己を支えてきたのだから。