野遊・呼吸の世界 13 吹雪の中の彷徨

呼吸の世界、極寒のAbout 8000M 無酸素ビバーク

アタックテントまであと1、2時間のサウス・コルで、あちこち真っ暗な中をさまよっていた人たちが、幸か不幸か合流する。名前を書いてもカタカナの羅列でわかりにくいだろうから省くが、スコット隊のガイド、ニールと顧客5名(内女性3名)、シェルパ2名。ロブ隊のガイド、マイクと顧客2名(ベック、康子)の11人だ。康子は一人でロープをハーネスにつなげて降りていたところ、この寄せ集め軍団に出会ったそうだ。

わたしは何度も考える。もし康子がここでこの集団に出会わなかったとしたらと。出会った途端、康子はほっとしただろう。そして彼らに自分をゆだねただろう。ゆだねた瞬間から嗅覚は鈍るものだ。危険が迫りくる、この期に及んで単なる顧客以上の何者にもなれなかった康子は、ただ自分の肉体と戦っただけだ。

彼らがテントに歩いて行ったならともかく、めちゃめちゃ迷って引っつれまわされたわけだから、それを思うと、康子がだれにも頼れない中で、自分の力でテントに向かっていたなら、どうだったのだろうと思う。少なくとも康子が集団と合流した地点では、道を間違えていなかった。康子がそれから歩きまわった距離よりずっと少ない距離に、テントはあったのだ。・・・集団に合流しない方がよかったような気が・・・たどりつけなくて死んだとしても。運命とは皮肉だ。どれもこれも、今だから言えることだな・・・

知り合いの山仲間同志でもない、国も言葉も違うこの集団は、視界の効かない、方向もわからない中で、最初はガイドやシェルパに頼っていたが、ガイドもシェルパも、あっちに行ったりこっちに行ったり、何時間もさまよう。上に行くと風が強くて、つい、つい、山腹の方に寄ってしまい、カンシュン・フェース側でぐるぐるやっていたようだ。ここにレーネ(前述)もいて、彼女はやがて、自分たちのガイド、ニールを頼っていてもラチがあかないと思い知る。スコット隊の顧客はロブ隊の顧客より若くて元気なので、もうガイドも何もなく、元気の残っている顧客がリードしていくようになっていった。

マイクは、ベックの世話がすごく大変で、康子の世話をし切れず、ニールに康子を頼む。康子はボンベの酸素がなくなっているのに、マスクを離そうとしない。そうするともっと苦しいよと説明しても、言葉が通じなかったのかもしれない。空のボンベを必死に吸っていたというから、ますます具合が悪くなっただろう。康子は自力で歩けなくなっていた。ニールが引きずっていたそうだ。

スコット隊の顧客サンディ(前述)も弱っていた。「足で歩けないなら這って行こう。それなら少しは前進する」と思ったと、生還後のサンディの言葉だ。夜が更けていく。たまに、ちょっとだけ山の姿が見えたりする。それを判断して、男性たちが見当をつけて歩き出す。やっぱりこういうとき、男性がいると女性は頼る。

この稜線を越えた向こう側にテントがあるはずだと判断して、歩ける人が先行することとなる。なぜなら、今までそうやって一緒にそこまで行っては引き返したりを、繰り返していたし、全員疲労が激しすぎたので。

残る組は、自力で歩けないロブ隊の顧客ベック、康子、スコット隊の顧客サンディ(前述)、シャーロット(スキー・パトロール)。ベックのほかは女性だ。レーネは女性ながら先行する組に入った。が、スコット隊の顧客ティム・マッドセン(スキー・パトロール)が、シャーロットと恋人同士だったので、シャーロットを置き去りにして行けないと言いだし、残ることになる。

この恋人同士、途中のテントの中でも不謹慎にも愛し合っていたそうで、ゲンを担ぐシェルパたちは「結婚していない男女が神聖な高所で関係を持つと、エヴェレストの女神の怒りを買う」と、忌み嫌がり、スコットは訴えを聞くたびにニヤニヤしていただけだったそうだ。大人同士のことだし、ま、どうしようもないと思ったのだろう。陰でそっと注意したかもしれないが。まわりがもっと気を利かせればいいものを、なんでも隊長だ。まことにやれやれ、隊長は大変だ。

相思相愛のただ中だったふたりは、離れることができなかったのだろう美談だ。けれどティムが残ったお陰で、ほか4名は心強かったと思う。それっ体を寄せ合って温めろっ、とか励まされたそうだ。

ガイドもシェルパも行ってしまい、長い時間を彼らは堪えた。西洋女性はまだ元気で、死にたくないと泣き叫んだのもいたが、難波康子はすでに身を倒していた。片手を上げた。そのまま力が抜けて、雪の上に全身がゆっくりと伸びてしまったという証言がある。ベックは勝手に立ちあがってちょっと高い場所に行き、「よし、すべてわかった」とか叫んでいたそうだ。そのあとドサッと転がったとか。本人は覚えてていないが、残り組2名までが後日証言している。


(16)真夜中の救出

どどっと6名、テントに帰って来た。ガイドのニール、マイク、顧客2名(レーネ、マーチン)、シェルパ2名。6時間以上暇があって、よく寝たアナトリは元気を回復していて、何がどうしてどうなったと、彼らから事情を聞くのだが、しゃべれないで意識を失うように倒れてしまう人たちばかりだった。

アナトリが彼らからなんとかキャッチしたのは、残りの顧客たちは、稜線でなく、サウス・コルの向こう側の斜めの雪原地帯にいるということ。でもアナトリはベース隊から、遭難者は南稜の方にいると聞いていたので、混乱した。どっちなんだ。レーネがはっきりと、稜線じゃない。と伝える。アナトリも、稜線だったら、こんな真っ暗な吹雪の中、行けないのだ。で、レーネの言う通りの方面に向かうことにする。

しかし稜線情報もまた間違っていなかった。この深夜、稜線には、スコットがいたのだ。・・・スコットを救出できる者はいなかった。

アナトリは、一歩外に出るだけで吹き飛ばされそうな中を、単身出て行った。だれか一緒に行ってくれと頼んでも、シェルパはこわがって動こうとせず、場所を案内してほしくても、先ほど戻って来たメンバーは再度立ち上がる力を持っていない。ロブ隊のテントに行っても同じことだった。「あんたたちのとこの顧客も一緒に遭難してるんですよ。だれか一緒に行ってくれ」と言っても、みんな使いもんにならなかった。シェルパは固まって震えているし、吹雪く前にテントに帰った賢3人も、そんな余力はなく、雪目になって、シュラフの中でうんうん唸って苦しんでいるのもいた。第一、シェルパならともかく顧客を誘うことはできない。

どうしてブラジル隊は動かなかったのだろう。近くの雪原に、集団で遭難しているとわかったいるのに。人道に反するじゃないか。そしてシェルパって、こういうときにどうして動かないのだろう。昼間から休んでいるシェルパもいるのに、何で出かけないのだ。全員が救助体制を取るべきではないか。アナトリは出かける前にかなり多くの時間を使ってしまったが、どうしてアナトリは一人の助手さえも確保できなかったのだろうか。それで救助できるつもりだったのだろうか。アナトリは本当に単身でしか出かけられなかったのか。

ここでアナトリが出かけなかったなら、彼は登山界から追放されただろうと後日ベックが述べているが、アナトリだって「しまった、しまった! このままにしておけない」と思ったに違いない。なんとしてでも救出しなければならない。実力を見せる、ここがアナトリの正念場だ。

アナトリは見当をつけて探しまわってはテントに戻り、また出かけて、ついにビバークしている瀕死の顧客たちを見つけ出す。テントからわずかのところだった。さあどうやって連れて行くか。シェルパがいれば!

恋人同士は男性が彼女を支え、サンディをアナトリが支えて出発した。アナトリはそうして、3人の顧客の命を救ったのだ。・・・で、倒れていたベックと康子は置いていかれた。ああシェルパがいれば!タイガーシェルパがいれば!