野遊の12月  2 「自分サイドの良し悪し」

単独で山に行くなという野遊の親戚たちは、何で単独で行くのかとは聞かない。一方的に単独で山に行くなと言うのだった。

ゴスケ(野遊の夫)は、お酒の席で野遊の弟に(弟は教師だが小説家です)、「最近書いているのか」と聞き、「書ける人なのだからもっと書くべきだ」という内容の言葉を発していた。「君ならできる」という檄を飛ばしていた。ゴスケは酔っていたので弟をガンガン励ましていた。弟は仕事も多忙だし、最近書いていないようで、ニヤニヤしながら聞いていたが、野遊は「うるさいなぁ〜、僕はどうしようと相談受けたわけでもないのに、書け書けと勧めるのは余計なお世話じゃ」と思ったものだ。

「君ならできる、やりたまえ」というのは教師が生徒に言う言葉であり、こんな場合はいかにも無責任だし不遜でさえある。

しかしゴスケは不調法なほどまじめな人であり、ときには修験者のごとき生き方を選択することがあり、だから平然と他者に思いを押し付けられるのだろう。自分の目いっぱいを精出して生きろと。

そのゴスケがみんなに向かって野遊の単独山行を、やめるように言ってくださいと言うのは、おおいに矛盾があるのではないか。自分サイドの良し悪しではないか。人間て勝手なものだと思う。

かく言う野遊も、自分サイドなわけで、行きたいから行くのだ。母がなくなったとき、なにかと野遊のしようとすることにブレーキをかけ続けてきた親を失って、野遊は「これで自由になった。もう何をしても、だれにも何も言われないのだ」と思ったことがある。しかしこの場合の自由とは、なんと切ないものだろうと思ったが。だからいくら言われても、親に言われるのとは全然違うのだが。

野遊はこういうとき反発しない。「ん〜そうね〜」とか言っている。「先月(鈴鹿・鎌ヶ岳)は名古屋の友達と行ったしね〜」とか言っている。でも、いざというときは、ひとりで行く気でいる。

姉たち、野遊には二人の姉がいるが、異口同音に単独を否定する。

普通なら親族たちは野遊に「山に行くな」と言うはずが、なぜ言わないかと言うと、野遊の親族たちは登山が、半端じゃなく好きなのだ。ただ単独はあまりなく(義兄や弟は体験している)、知らない世界を否定しているのだ。