ヒマラヤポカラトレッキング38「放置の愛で方」

このゲストハウスの入り際にある食堂は、たいてい知り合いか、誰か座ってる。

テーブルの上の天井には、ツバメの巣が、二つもある。餌を加えて飛んでくると、ひな鳥たちが口をそろえてビチビチビチビチ、もう切りがないです。そしてこの食堂のコンクリート床のところどころに、ツバメの糞が落ちて山となってる。その上方に巣があるのだ。

可愛いけど、その下で食事してる人、気にならないのだろうか?

ネパーリは生きとし生けるものを愛でていると言える。けれど手を出して愛でるのではなく、そのまま好きにさせているということだ。それはほぼ放置の愛で方。

ネパリ犬も街にあふれている。無職でずっと街のどこかの屋根の下で、男たちが鈴なりになって座ってぼんやりしているが、犬もそこに寝そべってマッタリしているのだ。

だれも野良犬を追い払わない。それぞれの居場所でくつろぎ合うのだ。だれでも、もし犬が老いたり病んだりして、カンカン照りの道の真ん中で倒れ、舌を出してハァハァと息をしていても、放置だ。道の両端に家や店が立ち並んでいて、男たちがぼんやりくつろいでいても、だれも犬を助けようとはしない。

ぼんやり見ているが、弱って苦しんでいる犬に、なぜ水を与えたり、せめて日影に連れて行くなどしないのか。

生きることにも死ぬことにも手出しをしないで愛でている。

燕の糞だらけになっても、そこに巣を作った生き物の邪魔をしない。彼らはもちろん、野遊よりも燕に近い。こういう人たちを、神は最初に望み、想像したのだろうと思う。