バリアフリーを考える(1)まずは道

バリアフリーは奥が深い。道を平らにする基本から、思想はどこまでも伸びていく。人間の平和をもっと掘り下げ、幸せを求めているのではないだろうか。
幸せかぁ〜聞き慣れた言語だなぁ〜でも幸せというのはむずかしい言葉だなぁ〜・・・

その昔、鎌倉市の、野遊の登下校道はぼこぼこで、端をどぶ川が流れていた。この川に自転車で落ちた友がいたもんだ。でも市民は誰も役所に「この川をふさいでください」と言いに行かなかった。思いもしなかった。気をつけて遊ぶことを、子供たちは学んだ。

土手には赤まんまが咲いていて、手で赤い実をこそげて、おかずに見たててママごと遊びをした。椎の木に登って実を取って、みんなで食べたこともある。

今この道はコンクリートでのっぺらぼうになり、どぶ川は蓋をされて、幅も広くなった。これがバリアフリーだ。赤まんまも椎の木も無残に伐採されて姿を消した。

妙本寺は何十年も前、真っ先に長い階段の横にコンクリートの坂を造ったお寺の一つだが、これはバリアフリー理念にのっとってのことではない(と、野遊はここで公言する)。お寺の住職が、自動車で上まで行くためだった。

それが今では、バリアフリー精神のもと、肯定されている。野遊は昔、このお寺の横に、えっと驚く坂道が出現して、そこを黒い自家用車がドドッと走り上がって行ったのを見て、あっけに取られたことがあるが、。あれから幾星霜、このお寺は、今やバリアフリーのはしりのように肯定されているのだ。

と、具体例をあげだすと、あのお寺、あのお店をあげつらうことになるので面倒だし止める。野遊は別に否定しているわけではないんだし。

八幡宮の階段の横にコンクリートのスローブができたとしたら、階段美はなくなるのではないか。さすがに八幡宮はそれをしないが、似たことをしたお寺がある。高さはないが、ど真ん中の階段をコンクリートでスローブにしてしまった。それって・・・迎合じゃないだろうか。迎合でも仕方ないよね、人を救うことにつながるのなら。でしょうか・・・