バリアフリーを考える(3)バリアフリーバス

バスがバリアフリー化されてきている。乗り降りのステップが広く、段差も緩やかだ。しかしそうやって車体を低くした分、車内の後ろ半分に大きな段差が生じた。バスが混むと、そこに立った人は脚を取られて大変不便だ。まあもっとも混雑するのは通勤時間あたりで、高齢者はすいた時間に利用することが多いのだろうけど、健常者だって、すねの少し上あたりまである段差に押され、人にも押され、バスに揺られ、ステップにあがることもできずに堪えるのだが、足を取られて押されたら苦痛だし危険だ。

それはバスの車輪が大きいから、車輪のあるところは車体が高いためで解消不可能だ。車輪を小さくすれば解消できるとしても、そんな小さな車輪をくるくる動かして走った日にゃバスでなくなる。

「足の不自由な人も等しくバスを利用しするために」はわかるが、「ここからはできないんですよ」ということもあってしかるべきではないだろうか。足の不自由な方が付き添いなしで行動できるようにと、たとえば鎌倉バリアフリー研究会の方も、バスの更なる改善(車輪を小型にするとか)を望んでいる意見があったが、どんなものかと野遊は疑問に思う。

先日、鎌倉駅で、今発車しようとしていたバスに、車椅子の方が乗ってこられた。付き添いがいたが、運転手さんがほかの社員(多分休憩中のほかの運転手さん)を呼んできて、ボードを置き、3人がかりで車椅子をバスに乗せた。

ただでさえ観光シーズンで道路が混雑してバスが遅れているところを、さらに15分以上の遅れを以ってバスが発進した。

野遊ははらはらした、乗客の中には急いでいる方もあろう。もしだれかが、車椅子の方に、不快な様子を示したらどうしようとはらはらしたのだった。でもみんな優しい雰囲気で静かに待っていた。それは車中の空気で伝わってきて、なんだかじんわりと野遊は感動してしまったものだ。

車椅子の方は、大仏見物に行くのだそうだ。降りるときのために、社員が一人乗り込み、大仏で補佐し、共に下車した。この社員は次に来る反対バスに乗って駅に戻るのだろう。

時間を大幅にロスしてしまった野遊はそのあとしわ寄せをこうむったが、これは仕方なしとせねばなるまい。むしろこのこと自体はいい思い出だ。世の中が優しくなった。

こうして健常者が補佐していけばいいのではないだろうか。付き添い以外にも、そこにいる人々が随時気軽に手を差し伸べていけば。もっと言えば、わざわざバスの社員が乗車しなくとも、居合わせた乗客が手伝えることだ。もし運転手さんが「どなたか手を貸してください」と声かけたなら、乗客は手伝っただろう。

障がいのある人が一人で行きたい所に行動できるようにと、考えすぎるとかえって不自然な事態も発生する。「これは障がい者にはムリです」ということがあっていいのだと思う。あとは周囲の人が補佐します。そのほうが本当のバリアフリー思想に近いと思う。

バスのバリアフリー化は不便です。その思想も孤独です。ことほどさようにすべてに向けて、歩み寄り合いたいものです。健常者のことも考えてください。共存共栄でおねがいします。