安達太良連峰(10)終章

安達太良山はいい山だった。

道も、岩も、その姿が、いかにも東北の山らしい。特に鉄山から主峰に向かう登山道が、野遊には異国だった。
ガスで前半は景色が見えなかったのが残念だったが、主峰を降りるころから晴れてきて、景観の美しい山だと思う。山渓のビデオやガイドブックなどから、目に描いて歩いてきたので、縦走路での絶景が心に浮かぶようだ。
みんなが親しめて楽しく、地元民には手ごろな山だと思う。
野遊にとっての丹沢のように。

でも気がかりなのは、何箇所かに渡る、あのズルグチヤの縦走路だ。山に手を入れるのは本来、しないほうがいいことながら、山が崩れていくのは整備すべきだと思う。登山者が通るのだから、ますます崩れていく。どうして手入れしないのだろう。

これは、今回の両登山口、野地温泉と安達太良高原をやっている人たちに、登山者への配慮がないのだと思う。県警も、もっと縦走路を点検すべきだと思うが、やはり地元業者の山への心が足りないと感じざるを得ない。

山小屋ではないからかもしれない。でも登山者にとっては山小屋利用感覚となる。そこしかないのだから。もう少し、登山客の身になってくれればいいのに。温泉ホテルの繁盛を願うなら、そこにも心をいたしてほしい。そうでなくとも湯治客が多勢いるので、おらが山を想う気持への行動ができていない。

横向温泉にしても、きっと同様だろう。利用した客がその前後に登山しようがしまいが、同じ客なのだろう。

安達太良高原にしても、ゴンドラや、乳首への道は整備されてあるが、往復のハイカーがごっそり利用してくれればいい、という感じがした。だからそういう客ばかりになって、日帰りできる客たちは、どうせならもっと繁盛している岳温泉に行ってしまう。安達太良高原そのものには精彩を感じなかったのは、何かの悪循環によるものだろう。

縦走路、鬼面山、箕輪山、鉄山のあたりの道を、もっと整備してしてほしい。余計な道標はいらないけど、大事なところでちゃんと呼びかける道標を立ててほしい。それは、山小屋でもあるべきふもとのホテルをやっている人が、自慢の山を愛でながら、自ら歩いていないからではないかな。

山の中でのことなんか、自分が何とかしようとは思わないのだろう。

あんないいい山なのに、そのふもとの人たちが、「じゃ、よろしくやってくださいね」と他人任せにして、ホテルの経営にばかり目を向けているという気がした。

ところで・・・野遊は大きな間違いをやらかしていはしないか?
タイトル「安達太良連峰」。安達太良山って、そもそも連峰と呼ぶだろうか・・・

たとえば鈴鹿の山について、鈴鹿連峰とはいい音ながら、そういう呼び方はせず、鈴鹿山脈でもなく、「鈴鹿山地」である。
丹沢の場合は、われわれ地元民は、言い慣らされた感覚でいとも自然に「丹沢山塊」と呼んでいる。

赤石山脈飛騨山脈であり、連峰とは呼ばないけど・・・穂高連峰って言うし。山脈、連峰、山地、山塊と呼ぶには規模があるのだろうが、どういう基準なのだろうか。字だけ調べるとどれも当てはまるのだけど。