大黒屋光大夫を辿る旅 1 訪露のお誘い

今はなき恩師村田邦夫先生が、鈴鹿で「佐佐木信綱記念館のソフトの充実」のために、その晩年を燃焼させた鈴鹿という地に、先生を偲んで出かけた野遊は、やがて、当時市長だった人と出逢うこととなる。この人は僧侶で、野遊の恩師への想いを、ゆっくりと支え、導いてくださった。

そしてこの僧侶は、野遊の著書『はるかなる連弾』〜恩師村田邦夫の旋律を辿って〜に、あとがきを添えてくださった。その日からすでに4年の歳月が流れている。

この4年の間に、この僧侶からある書物を書いてほしいと打診があり、それはある冤罪事件についてであって、野遊の得意とする分野ではなかったので一度はお断りしたが、再三丁寧な依頼を受けて、昨年の夏、受諾するに至った。原稿はただ今、ほぼ脱稿した状態となっている。これから大切な仕上げとなっていく段階に入る。

さて今年の春だったか、この僧侶から「ロシアに行きませんか」と打診があった。「費用は持ちますよ」と。聞けば1週間、出発は8月上旬だという。夏はダメですとお断りした。それから紆余曲折を経た。

この僧侶は市長時代に鈴鹿出身の大黒屋光大夫の軌跡を辿った旅をしている。それは1991年、イルクーツク市長から、光大夫を通して友好の交流の呼びかけがあり、ロシアに於ける映画『おろしや国酔夢譚』(井上靖著)の撮影中のことだった。

鈴鹿市より訪露(当時はソ連だった)団体が組まれ、大変有効な国際交流が実現化された。イルクーツク市は光大夫の記念碑を建て、鈴鹿市も白子の海岸に光大夫の記念碑を建てた。

しかし市長が変わって情勢も一変し、せっかくの交流はそのままになっていたのだった。
このたびロシアから、20年ぶりに、再び会いましょうという声かけがあった。鈴鹿市としてではなく、当時の市長の僧侶がこれを受け、訪露を決断したのだった。

当時の鈴鹿市は目を見張る発展を遂げていて、これはその一環に過ぎないのだが、この僧侶は自分の市長時代の活躍の一端でも、野遊に紹介してみたかったのだろう。それは野遊がその事を、このたびの書物で取り扱っているからである。野遊は資料で知っただけの状態で書いてきたので、この僧侶が、市長としてどのような人物だったのか、執筆上知る必要があると理解した。

参加者の締め切りも過ぎた7月上旬、野遊はギリギリでようやく決心をつけ、引き受けることとなった。旅の総責任者はもちろん件の僧侶であり、団長と呼ぶ。

ただ招待されて参加するのもどうかと思い、執筆係という役を引き受けることとなった。つまり最初から旅行紀を執筆してくださいという経路ではなかったのだ。

それもエッセイ風に自由に描くだけでもいいという、つまり執筆とかいう名分をとりあえずつけたようなものだったので、団長の野遊の描く(冤罪についての)書物への、深い深い要望、期待をひしひしと感じたものである。

ところがこうなるとやがて、旅が始まってから、野遊は執筆係と名乗るからには参加者の方々は野遊をそういう気持で受け入れるし、書かねばならず(当たり前でしょ(~_~;)「これは面倒なことになった」と思った。