大黒谷光大夫を辿る旅 2 鈴鹿入り

野遊の姉は美術、音楽に造詣が深く、ヨーロッパ方面、特にイタリーにはよく出かけるのだが、野遊の話を聞いて「きっといい体験になるわよ」と励ましてくれ、旅行用トランクを貸してくれた。

横浜にパスポートを作りに行く日、鈴鹿から団長が出てきて、これは何かの用事のついでに寄ったとかだが、あれこれ談話をしながら夕食、次の日鈴鹿に帰っていった。

団長は常からまめなタイプで、よく上京するのだが、そのたびに野遊に知らせを入れてきて、用事が終わってから会いましょうと言ってくるのだ。野遊はたいてい出ていかない。なぜって食事のためだけに電車で出かけるのがイヤだから。件の書物の件などで、用事がある場合は出て行く。


団長は7月某日、鈴鹿に出てくるように言った。参加者24人の顔合わせがあるそうで、これは今年の梅雨明けが早まったことで野遊は朝日連峰に行きたくて断った。顔合わせ会では光大夫についての説明やビデオ会などがあるそうだが、野遊は特に必要ないと思った。

この旅に参加する方々は、「光太夫研究会」の方や、昔役所の職員をしていた時代、第1回訪露の事業に、何らかの形で携わった人などのようで、光大夫を知っている。けれどそうでもない方々もあったようだ。それは人数を集めるため公募もしたというから、シベリア、バイカル湖、などの謳い文句に惹かれたこともあるだろう。そういう方々を集めて総体的にこれだけはという知識をここで得ていってください、といった会でもあったのだ。

野遊は旅行会社から来る連絡に従って資料に書きこんで返信したり、パスポートを送付したりしているうちに日が経っていった。

当日出発の8月6日の前日の5日、団長に指示された通り野遊は鈴鹿入りした。出発前、午前11時過ぎに団体で鈴鹿市役所に挨拶?に行くそうで、団長はそれに加わるようにと言った。

夕方鈴鹿駅に着くと、ホームで団長が待っている。団長の車で文芸評論家の清水信氏を訪問した。清水氏は気さくな感じのすてきな方だった。野遊の脱稿した書物について、多少の感想をいただき、今後再びこのことについて話し合いましょうという感じで辞した。

そのあと団長の友人などに会い、それから夕食を済ませてホテルに行った。時間は21時をまわっていて、明日出発なのに団長は大丈夫なのだろうかと思ったが、旅慣れているのか、急いでいる様子もなかった。準備はいいのですかと聞くと、「まだ何にもしていない、これからします、全部自分で」と団長は言った。

ホテルは鈴鹿サーキット。温泉に浸かって、もうこれ以降はかなり不自由な生活に耐えることになるだろうと思いながら、ベッドで目をつむった。