朝日連峰 この秋 20 「マタギ」

マタギとカタカナで書くが、漢字では又鬼だ。今は漢字は使用されていないようだけど。マタギ差別用語だという意見も出ている。でも、猟師と言ってしまうと、あんまりいっしょくたすぎると思う。マタギ差別用語だなんて言わないでほしい。そう言う人は、もっとマタギの世界を知ってほしいと思う。

マタギにも何種類かあって、昔々、戸籍も曖昧な感じで山奥に自給自足で住んでいた人たちもある。
それはごく一部のことで、彼らは動物に匹敵する勘を持って暮らしていたことだろう。

野生のマタギ、とでもいうのか。
戦後、登山者が山に入る回数が増え、行き倒れてマタギに助けられるなど、感動的な実話もある。彼らは動物を解体して背負って歩くが、そのまま背負うこともあるそうで、野遊もおんぶしてもらいたいなと思った。射殺のあとでは困るけど、これも「オマケ」で(^.^)
やがて時代が進み、彼らは里に下りて行くのだが。山小屋を任されたマタギもいる。
里の知識が少ないから、いいように国に利用されちゃった気の毒なマタギもいる。

我々が言うマタギは、たいていの場合、上記のマタギではない。
里の住民で、狩をなりわいとしているマタギのことだ。普段は農業とか、ほかの職業を持っている人々もいる。


熊谷達也著『邂逅の森』は、東北のマタギの物語だ。

舞台は秋田県阿仁。山は高森山。

〔ここまで厳しい冬山はマタギだけのものだ。山で生き抜く力がはるかに長けた獣をも、この時だけは、人間の意志が凌駕する。毛皮を持たず、生身のままでは1日たりとも生き延びられない存在だからこそ、裏を返せば為せる技。動物としての己の弱さを骨髄まで知っているマタギたちが唯一、獣の王者になれる瞬間でもある。〕

〔もっとも、金カンジキと爪カンジキを使い分け、凍てついた雪面を、あるいは膝上までもぐってしまう雪中を、1歩1歩寡黙に歩く彼らは、そんな理屈めいたことはひとつも考えていない。行く手を遮る障壁に、いかにして食らいつくか、全神経を研ぎ澄ますのに精一杯なのだ。人は、歩いた山だけ山を知る。山のことは山に教われ。獣のことは獣に学べ。それがマタギの鉄則である。〕

〔「早々(ちゃっちゃ)と行(あ)べでぁ、ええか、雪庇(まぶ)にだげは気ぃつげろよ」
表層雪崩(わし)の次に危険なのは尾根(ながね)の風下に張り出した雪庇に乗ってしまうことだった。〕



マタギの話をいくつか読んだが、この小説は特に前半が躍動的だ。地元の山でクマが獲れないと、旅マタギといって、遠出する。もちろんそこにも厳しい掟がある。この小説のマタギたちは、厳冬期の月山に足を伸ばし、ビバークしながら熊を捜す壮絶なシーンがある。

山を生活の場としていたマタギの世界を思うと、しつらえられた登山道を歩いただけで喜んでいる我々登山者は、一体なんだろねと思う。熊鈴とか鳴らして騒々しく歩く登山者、マタギはその熊を捜して山々を飛びまわる。熊は怖がり屋で、囲われても逃げようとする。襲ってこないそうだ。肉食動物ではないから、気立てが優しいようだ。

マタギは、動物は山の神様が自分たちに授けてくださるものと思い、動物を仕留めると祈りを捧げる。ただの猟師が熊に仕掛ける罠を卑怯也とする。仕留めた熊が、前足がなかったりして痩せていると、罠で苦しんだことに、マタギたちは悲しみと怒りを感じるのだ。雪崩の起きそうな場所では、鉄砲を使用せずに、長さ3尺あまりの小長柄(こながい)を手にして戦うこともある。山刀(ながさ)も使う。アオシシ(カモシカ)などは、一発で脳天を打ち砕くように振りおろし、二発で殺すのは未熟者とされる。動物を苦しませないためだ。

〔さまざまな掟や禁忌があるマタギの世界には、獲ってはならないとされている動物が幾つかある。そのひとつが、月の輪の全くない、全身が真っ黒なツキノワグマ、ミナグロだった。ミナグロは、神様の使いであり、化身でもある。もし間違えて撃ってしまったら、獲った熊のすべてを山の神様に供えて祈りを捧げ、赦しを請わなければならない。さらにそれだけではなく、そのマタギは「タテを収める」必要がある。その後はいっさいのマタギ仕事をやめなければならないのだ。〕

ミナグロは、山に棲む神様だ。遭難しそうなマタギの前に幻のように現れて、里道まで導いた「ミナグロ伝説」もある。

このたびの山行で、野遊が山じいの後姿を追いながら、また、仁王立ちして「ここに登ってきなさい」と言う姿を見あげて、これはミナグロだと思ったのは、それは・・・ミナグロだったからだろう。

野遊はこれから朝日を歩くとき、前方にミナグロを感じるだろう。

ほんとうに熊の姿で出会ったら\(◎o◎)/!こわいよ〜スズメバチも。
朝日にヒルはいないのかな、見たことないけど。
あ、なんか話題全然ちがいますね(^_^;)