朝日連峰北方 8 障子ヶ岳に挨拶する

元気いっぱいで登る。方向感覚がはっきりしていて、あの日、なぜここで、どちらに歩いて行っていいかわからなくなるようなヘマをやらかしていたのか不思議でしょうがない。

・・・回想しつつ登る。草も樹も乾き切っていてパリパリだったが、水分がほしくて葉っぱの中に顔を突っ込んだりしていたな。でもペットボトルに残りわずかな水を大事に持っていたな。障子の頂上で飲み切ろうと。

小障子は通過突起のような感じで、左側は断崖で下方まで切れ落ちている。重い体を引きずるようにして登ったっけ。頭で思っていることが行動にならず、今にも気が遠くなるようで、眠くてたまらなかった。ザックを投げ出してひと眠りしてしまえ、としゃがみ込んでも神経は警戒心に高ぶって落ち着かず、半歩でも足を前に出せばいつかは着く、と動き出すの繰り返し。

辛かった。なんでこんな思いをして山に登るのかと、自分が恨めしかった。バカなことをしたものだと心から思った。山なんか二度と来るものかと。

障子に向かって祈った。「障子さん、野遊を助けてください。今後決して山には登りません。誓います。だから助けて」

・・・野遊は今回の山行で、障子ヶ岳に挨拶をしなければならなかった。

あのときのお礼と、前言撤回の挨拶だ(^_^;)
誓っておきながら知らん顔してまた山に来てはいけないからね。

あのさらに前年、野遊は初めて朝日連峰に入り、北(泡滝、以東)から南(大朝日、小寺鉱泉)を縦走しているが、その勢いで次のとき(昨夏)、横腹の尾根も歩いてみようと大井沢入りを計画したのだったが、最初に成功した喜びから、どこかに不遜なものがあったのではないだろうか。
登山者に不遜という言葉は最悪の表現なのだが、敢えて野遊はその言葉を当てはめて考えてみるのだった。

「そんなことない、絶対にない」と言いたい。しかしどの行動が不遜だったかというよりも、心に隙があったということで。それを神様が野遊に教えてくださった。痛い目に遭わせることで。

遭難までは許されて懲らしめられたのだろう。だから野遊は障子ヶ岳に、謹んで「挨拶」した。

障子への道は美しい。右側に連なる山腹はそれぞれの緑の衣服をふっさりとまとい、幾重にも重なっている。後方(北)は赤御堂岳が、歩み出せば行けるように続いていて、あの稜線が人を寄せつけない道なき道の山々で、その先は月山へと連なっていくのだ。そろそろ紅葉が始まっていた。