朝日連峰北方 25 以東小屋の碧玉水

以東小屋に到着17:00。ケータイの電池を入れ、朝日屋さんに連絡を入れる。「docomoですが、小屋から通じますか」と、出発前に確認済みだ。
朝日屋さんは、すぐに出た。「明日の14時に泡滝に着く予定」を告げた。13時でなく14時にしたのは、ゆっくり出発する分だ。もう急ぐ必要もない。急降下道を行きたいので、聞きたいこともあったが、電話口に出たのは女性で、そういう話はよく答えられないようなので、あきらめた。

だれもいない小屋の前に、大きな湿り気があり、これは水を流し捨てた後のようだ。本日ここを出発した人の名残だろう。これは相当な水の量だったはず。たくさん汲んだのだな、取っておいてほしかった(^_^;)

まずは水を汲んで来ねば。ハイドレーションに充分残っているが、今日と明日の行動用に、一度に汲んできてしまおう。何しろ水場は遠いと聞いているから。
野遊は重い戸を開け、ザックを降ろすと、小屋の内部を一瞥しただけで靴も脱がず、そのまますぐに水を汲みに行くことにした。小屋の入り口にポリタンクが2台、置いてある。小さい方のをお借りした。でも相当大きい。天狗小屋は2ℓのペットボトル(アルコールが入っていたのを再利用したもの)だったが、ここは本物の水入れだ。

ガイドブックには、東沢源頭へ踏み跡を辿っていくとある。小屋の横に水場の表示がある。草の多い道をせせこましく降りていく。ロープが張られてあり、辿って行けばいい。でもロープは、ちょっと小高くなっている平べったい岩の上から、とんでもない草むらに伸びていた。ここを伝って降りるのかと思った。足元が定まらない。泳ぎながら、これって絶対おかしいと思った。戻るのは嫌で、ギャアギャア驚きながら伝っていくと、その先に土の道が見え、必死で近づいて行った。

そこからは平和な下り道となったが、上を見ればちゃんとした道がついていて、今の「泳ぎ道」は、固定ロープが外れて、しばし道ならぬ道を這っていたにすぎなかったのだ。それがちょうど小高くなっている平べったい岩なんかがあったために、そこから伸びているロープの方向しか見なかったのだ。よく見まわせば、右手に道があるのがわかったはずなのに、ここ、としか見ない野遊は、ほんっとうに未熟者だ!!

こ、こ、こんな、た、た、たかが水場に行くのに、よ、よ、予想外の藪漕ぎをするとは!こんな赤恥事項を書きたくないのだが、これは第一に自分への記録なので、基本、読者?を意識して書いているのとは違う面もあるので、いいことも悪いこともそのまま記さねば。嗤ってください。

役者言葉かな、下読みもなく公の場で本を音読するとき「初見」と言うが、登山者が初めての道を行くのは「初道」か。初見が難しく感じられるものなら、初道は長く感じるものか。ドタバタも入れて10分は降りたんじゃないの、数字で10分と言えば大したことないが、先行き不確かな不安の中で実際に10分、必死で歩いてみれば、大変さがわかるというものだ、心細い〜! でも見あげれば小屋があるからそれを拠り所にしよう。その小屋が〜小屋が〜見えなくなった。どこまで降りて行くのよ〜。もしかして地獄の谷底に向かっているのかも。泣きそう。

手が〜手が〜痛い〜痒いよ〜虫が来た〜虫が〜羽虫が〜顔にまとわりつくよ〜そうだ!ポケットに虫よけネットがあるのだった!ポリタンクを置いてネットを出し、被る。肩までたっぷりある。

右下方に、ようやく水場が見えた。「ここでいいのだ」と知る瞬間の安堵感はどうだろう。一気にストレスが抜けた。

水が染み出てヌルヌルした道を気をつけて辿り、水場に行くと、もうそこで顔を洗ったり体を拭いたりする気は失せていて、とにかく水を汲んで戻りたい。

ポリタンクを水の吹き出る口に当てた。ド〜バシャバシャ、キャァ寒い!もっと静かに遠くから。へっぴり腰でポリタンク抱えてジョボジョボ。ツルリ、うわコワ。

半分くらいでいいや、と持ちあげると重い!全然持ちあがらない。その半分、水をこぼして持ちあげたが、ビクともしない。なんなのこのバケモノポリタンク。またその半分にして、底にちょびっと水を残してようやく持ちあがった。野遊、量もわからないのだった。よいしょなんて持つ量の水がなんで要るのよ、なんで気づかないのよ気づかなかった。

さあ戻ろう。エッチラオッチラ登って行った。道は急なので、よいしょとポリタンクを上方に置いて、それから自分の体を持ちあげて、またポリタンクをよいしょ。いつまで続く登り道。

ようやく以東小屋が見あげられるところまで来てホッとしたが、その風景は異様なものだった。黒いボチボチがまぶされているのだ。それは、虫除けネットの外側に群がる無数の小虫たちだった。みんなが集団で、ここに来た人間を襲っているのだった。夕方だからでもあるのだろう。

隙間を探してブワン、ブワン、肩までかぶさるネットでよかった。でも手袋はザックの中だ。手が痒い、痛い。払いながら登った。

小屋に着いたとき、野遊はすっかり疲れてしまった。本日はこれで終わりと思った行動が、あとひと仕事と付け足されるとき、人はこんなに疲労してしまうのかと思った。

一昨年ここで(朝日屋さんの)バイトとして小屋番をしていた若い女性を、野遊はうらやましく思ったことがあるが、水汲みはどんなに大変だったことか、野遊はここでバイトなんてイヤだ、絶対にイヤだと思った。

(これは予想外の道に、野遊が困憊したからであって、二度歩けばそんな大層な道ではないと知るだろう。今は、やっぱり以東小屋のバイトっていいなと思っている)

ビショビショの痒い状態で小屋に入り、ザックからハイドレーションを出して水を満杯にした。あとは今夜と明日の朝の分だ。水で体を拭く気はなくなっていた。着替えるとき、ウェットテッシュで顔を拭き、体の汗をぬぐった。