2012-01-01から1年間の記事一覧

朝日連峰北方 6、2012年9月10日(月)出発

準備体操をしてしばらくブラブラしてから歩きはじめた。すぐに歩きはじめた昨夏とはすべて違うやり方をしてゲンを担いでいるような気分。しばらく行くと出合吹沢だ。ここで朝食をとる。橋本荘の女将さんが作ってくれたおにぎり3個の、1個をゆっくり食べる…

朝日連峰北方 5、朝、登山口までの車中

目が覚めると5時だった。なんと5時間くらいノンストップで寝たことになる。これはいいぞ!と思った。昨夏は5時に起きようとして4時50分に目覚ましをかけておいたら、同宿の人は大朝日に行くとかで早く起き、女将さんがついでに声をかけてくださったの…

朝日連峰北方 4、石川天狗さんと遠藤竜門さんが現れる

玄関に、誰かが寄った。女将さんが野遊に「石川さんが来た」と、声を弾ませたので見ると、背の高い男の人が立っていた。野遊は昨年お世話になった山田天狗さんが、この春から引退されたことは知っているが、新しく天狗小屋の番人さんになった人を知らない。…

朝日連峰北方 3、大井沢入り

山形駅は懐かしい。初めては一昨年の夏、小寺から大井沢まで朝日屋さんの弟さん方の車に同乗させていただき、そこからバスで月山口、そこからまたバスで山形に出て、終点を間違えて県庁前で下車してしまい、西日をもろに浴びながら10キロ以上の道路を登山靴…

朝日連峰北方 2、横腹から北方に抜ける計画

障子を超えることがまず第一の目標なので、入山は大井沢だ。どこに抜けるか。地元の方はマイカーで往復や周回登山ができるが、野遊は交通網を駆使していく。 南方の朝日鉱泉は、夏のわずかなシーズンしかバスが入らない。その手前の小寺鉱泉も、タクシーを呼…

朝日連峰北方 1、ほころびを整備して出発

想いは朝日。目指すは障子ヶ岳。 昨夏は登り早々でヘタレ、フラフラで超えた障子だった。 もっと行きたいけれどそれは不遜、次の日に稜線に出る予定を返上し、天狗の小屋から大井沢に戻った。そして再び障子を超えたいと思い続けた。夏は休暇が取りやすく、…

恩師村田邦夫先生 15 「常軌を逸してハチに問う」 終章

白い道を行く。先を歩く人の影を追う。影は振り返り、「戻りなさい」と言う。ひとこと半句も反論できない、重い静かな余韻が響く。「はい」それしか言えない。けれど気がつくと、遠い遠い夢の彼方で、野遊はまだその道を歩いているのだ。先を行くその人は、…

恩師村田邦夫先生 14 はるかなる連弾「さようなら鈴鹿」 

『はるかなる連弾』〜恩師村田邦夫の旋律を辿って〜 の出版以降、野遊は、ハチと野遊の連弾はエンドレスなのだと知った。どこまでも続く道を、どこまでも歩いていくのだ。前方にハチの後ろ姿を見つめながら。鈴鹿との関わりができたのがハチの軌跡を辿ったこ…

恩師村田邦夫先生 13 はるかなる連弾「河曲の無人駅へ再び」

そこに立つと、まるでお決まりの儀式のように、野遊の胸には感慨が込みあがってくるのだ。野遊には、ハチが、遠く伊吹の方を眺めあげる姿、ひつち田を眺めおろす姿、ベンチにぽつんと座っている姿が浮かぶ。そのたびに何回も何回も、野遊はそこにいたかった…

恩師村田邦夫先生 12 はるかなる連弾「佐々木信綱墓所」

K氏はわたしたちに案内するところを計画していたようで、大木神社のあと信綱の墓所に連れて行って下さった。昭和25年の信綱鈴鹿訪問は、大木神社をめぐって佐々木家のお墓にお参りしている。その通りの経路を、K氏はたどってくださった。当時の写真は、…

恩師村田邦夫先生 11 はるかなる連弾「大木神社」

K氏はRさんと野遊に、昭和25年信綱訪鈴の写真を、葉書大の焼き増しをしてプレゼントしてくださった。その数枚の中に、当時秘書として付き添った村田先生の姿もあったのだ! これも、野遊は(実は)持っているものではあったが、K氏の思いやりを大変あり…

恩師村田邦夫先生 10 はるかなる連弾「佐佐木信綱記念館」

K氏にRさんを紹介して、青い車に乗り、佐佐木信綱記念館に行く。もう何度ここに来たことだろう。最近では昨年2010年11月、佐佐木信綱の故郷を訪ねるテーマの講演に、K氏と打ち合わせて訪問している。記念館の学芸員さんは、今回も丁寧に展示品の説…

恩師村田邦夫先生 9はるかなる連弾「河曲駅騒動」

お昼過ぎに河曲に着いた。ホームに入る車窓から、駅の外が見える。K氏の姿と、青い車が見えた。順調に到着!と、いそいそしながらドアーの前に立った。電車が止まる。降りようとしたら、ドアが閉まっている。えっ、手動なの!?手で開けようとしたができな…

恩師村田邦夫先生 8はるかなる連弾「鈴鹿へ」

小田原から新幹線に乗る。ホームで初めて会ったRさんは、明るくて可愛い感じの女性だった。わたしたちは会ったとたんに仲良しになった。車内では、村田先生の、おたがいの思い出話に花が咲いた。先にRさんがいっぱいしゃべった。でもなんだかもどかしそう…

恩師村田邦夫先生 7はるかなる連弾「連絡が入る」

三重県郷土史を研究しておられるK氏から連絡が入った。4月7日(土)に記念館に行くとのこと。野遊もK氏に会う用事がある。急だったのであわてたが、何とか都合をつけることができた。となれば横浜学院の彼女(Rさん)にも知らせてみよう、と打診してみ…

恩師村田邦夫先生 6 はるかなる連弾「墓参」

横浜学院卒業生のその女性は、手紙やメールで野遊に語りかけてきてくれた。村田先生のお墓参りをしたいので、場所を教えてほしい、できたら一緒に、と言ってきた。鈴鹿にも行ってみたいので、一緒にと。村田先生のご遺族の方から、墓所を公開しないでほしい…

恩師村田邦夫先生 4 はるかなる連弾「横浜学院卒業生に救われる」

横浜学院卒業生は、野遊の後の高校生になるので、村田先生は湘南学園中学主事の後に転任されたから野遊よりずっと年下だ。彼女の高校時代の思い出は、村田先生が授業で、どんなことを教えてくださったかが書かれてあった。漢文も習ったそうでうらやましい。…

恩師村田邦夫先生 5 はるかなる連弾「横浜学院が好きだったのね」

野遊の叔父は湘南学園の化学の教師で、村田先生が高校主事として新任され、10人以上もの新教師に一新された年に就職した。野遊の入学した年だ。若かった叔父は、ひたすら村田先生の教えを守り、一生懸命勉学に励み、良き教師を目指していた。いつも勉強、…

恩師村田邦夫先生 3はるかなる連弾「横浜学院時代からの声」

『はるかなる連弾』は、2007年、村田先生がなくなられて、生き迷った野遊が、一気呵成に書きあげたものだったが、県立湘南高校時代と私立湘南学園時代の資料は手元にあったが、横浜学院時代のことについては何もなかった。で、具体的なことを書けなかった。…

恩師村田邦夫先生 2 はるかなる連弾「出版後」

野遊が今、村田邦夫先生について再びここに記載するのは、あるきっかけがあったからだ。野遊は、このブログでは紹介しないできたが、村田先生の追憶をたどった本を出している。なぜここにそれを発表しなかったかは、後述に送る。それは『はるかなる連弾』〜…

恩師村田邦夫先生 1、はるかなる連弾「授業をもっと受けたかった」

昔々の思い出です。湘南学園高校の古典の授業、単位を取る正規の授業ではなく、1週間に1度だけ、古典演習として受けた野遊の時代の湘南学園生は、中学主事となった村田先生の授業を受けられるだけでもラッキーだったと思うべきか、その1年前の先輩方がが…

野遊の12月 14「ツアー感想」

ツアーは集団旅行のことであり、今は山でも海でも多い。知人が「どこどこへ行った」と言うと、最近はツアーである場合が多い。ひとり参加も気軽にできる。人間関係の寂しい時代なのかもしれない。考えを転ずれば、集合場所から解散まで「連れて行ってもらえ…

野遊の12月 13「ツアー登山体験談」(8)袋田の滝

林道を下ればバスが待っている登山口、逆を行けば袋田の滝を見物できる。1時間自由行動となり、皆さんどうするかと見ていたら、バスのほうにゾロゾロ行く人が多かった。そこにはお店もあって、お茶したりできるとか。でもまだ汗もかいていないうちに林道に降…

野遊の12月 12「ツアー登山体験談」(7)ガイドが滑り落ちた

下山は頂上から尾根道を袋田の滝まで降りるのだが、このたびは「かずま」というところから、林道に最も近い道を伝って降りることになっていた。野遊の持参していった地図には、その下山路は示されていなくて、道は袋田の滝に向かって尾根伝いに下山していく…